父の遺したもの

敗戦後すぐの私

国が敗れても元町小学校のプールは泳ぐのに差し支えない水を満たしていました。先生方の姿をみませんでしたから、許可なく勝手に泳ぎました。泳ぎ疲れての帰り、馬の世話をしていた兵隊さんに声をかけられました。

「ボン(坊)疲れただろう、これをかじりながら帰りな」

チリ紙に包んだ黒砂糖の一片をくれました。甘味に飢えてましたから、それは嬉しいことでした。

でもなぜ校庭に兵隊さんが・・・?

内地(日本本土)を目指して帰国中の邁進まいしん部隊の一兵卒さんだったのです。講堂を宿舎として何日間かを過ごしていきました。それを機にいろいろと知り合った兵隊さんの一人が

「布地はあるけど、誰か越中ふんどしを縫ってくれる人いないか?」

とのこと、帰宅して母に言うと

「ミシンもあるしお安い御用よ」

と、預かった布で何本か作り手渡すと、お礼だよと乾パンの入った袋を5袋も貰いました。その後すぐに青年将校から声をかけられ

「ボン何時も兵隊が世話になってすまないね、これから昼食を喰うけど一緒にどうだ?」

と誘われ、遠慮なく食べることにしました。裏門にあった幼稚園の部屋に裁縫台と思いましたが、それをズラリと並べ、唄の文句にあるように金の茶碗に金の箸、白いご飯は魅力的に輝いていました。

少尉さんの「何もないぞ」と言う通りみそ汁とたくわん数切れ、そして缶から出されたままの形で金の皿にのっている牛肉の缶詰・・・

私は困りました。映画だとどの様なスタイルで過去に場面転換するでしょうか?私にも五歳のかわいい時代がありました。日本海側に江陵こうりょうという村があり、元山から鉄道を敷く開発責任者の一員として父が赴任したのです。

ある日お客様があるという事で、母は腕をふるってご馳走を作りました。やがて出来上がった一品をテーブルにどんと置きます。私は無邪気に「これなぁーに」と聞きました。

母はこともなげに「あなたが昼間追っかけて遊んだ鶏よ」と言いました。ショックでした、それ以来一片の肉も口に出来なくなりました。

さて、今まで口にしなかった肉が目の前に・・・困りました。が、少尉さんの好意を無にしてはいけない、ままよと恐る恐る箸を出し口に入れました。

「うん?なんだ肉ってうまいじゃないか」それから肉が食べられるようになりました。しかし年を経た今も牛や豚は脂身の少ないところだけで、鶏もささみしか食べられません。

ともあれ兵隊さんのおかげで偏食のひとつが直りました。そうこうしている内に部隊の出発の日が来ました。

「ボンいよいよお別れだな、これをあげるから使ってくれ」

少尉さんはそう言うと軍用の自転車を一台くれました。そしてそれが最後でした。翌日学校に行ってみるとシーンとした中に元町小学校はこともなげに立っていました。いろいろな思い出をありがとう。私が学校を目にしたのもそれっきりでした。


この文章は引き揚げ後に様々な形で連絡がとれて、1971年に結成された京城元町小学校同窓会(16期から35期)の中の京城元町公立国民学校第35期生(柳会)発行の文集「柳3号」に亡き父(2014年死去)が寄稿したものです。
突然の玉音放送後の日本領朝鮮、総督府、軍司令部が置かれていた京城(現ソウル)の8月20日から約2週間の体験となります。

父は祖父が仕事(鉄道)で朝鮮にいた昭和8年(1933年)京城で生まれました。祖父の朝鮮行きは重要な国策に絡むものでしたので後にじっくりとします。その後昭和15年、京城元町公立国民学校に入学。終戦時は国民学校6年生でした。
国民学校は戦中の小学校の呼び名で、本土(日本列島)と呼称は同じですが、朝鮮にあっては内鮮一体方針のもとバラバラだった普通学校(朝鮮人の子供用)と尋常小学校(日本人の子供用)を満州事変の後統合、改称したものです。こちらも詳しくはのちのち。


8月15日正午の玉音放送で事実上日本軍は消滅したわけですが、父の体験で京城においてその後も末端の部隊の規律がしっかり保たれているのがおわかりになると思います。

pointこの方達が確たる証拠も示さず、詳細な調査も行わず、性犯罪者のレッテルを自国のメディア、弁護士、学者などに貼られ「河野談話」でとどめを刺された最後の朝鮮守備にあたっていた日本軍になります。

「あんなもんあるか!」強制連行の報道を目に耳にするたびの父の怒りは凄まじいものでしたが、結局存命中、柳会にも個人的にも誰も聞き取りも資料提出の願いもしてきませんでしたので、このようなものも表には出ていないだろうと思われます。

また日韓歴史認識問題が騒がれても、所詮騒がれているだけなので邁進部隊をインターネットで検索しても出るのはアジア歴史資料センター公開程度です。
しかし元町小の場合、近代化支援のため渡鮮(旧韓国時代)した日本人の子供7人のため明治36年に開校されて以来、歴代校長の残した記録が、最後の校長山本勝大氏によって日本に持ち帰られました。

それが「柳3号」巻末に添付されたものになります。

昭和20年8月20日邁進56部隊来り宿舎す。昭和20年9月8日進駐米軍の一部宿営し日本軍は撤退せり。とハッキリと記されていますので、父の出会った部隊の方達が、邁進56部隊と分かります。

沿革史の一部です。資料はクリックすると拡大します。


父の供養替わりとまずここから始めました。

1990年代、真の併合時代を知る多くの方が鬼籍に入り、身の潔白を証明できない頃に突然わいて出た慰安婦強制連行問題。
1965年の日韓基本条約がどれほど重いものであるかも分らない人達に作られた感のあるこの話は、当時の朝鮮で生活していた日本人視点では噴飯もの、憤慨ものでしかありません。

この戦後最大の冤罪事件だけにかかわらず、いったい朝鮮半島で当時の日本国は何をしようとしていたのか、現地に居た内地人(日本人)と朝鮮人はどんな関係でどんな生活をしていたのか・・・
私が子供の頃から聞いて得た知識をもとに、公開されている資料を用いつつ皆さんが何故か教えてもらえない本当の日韓の歴史をお伝えしていこうと思います。
興味を持っていただけましたら、素人文章で読みにくいとは思いますがしばらくの間お付き合いください。

繰り返しになりますが、併せてご紹介していきます国立国会図書館インターネット開示の資料を見ていただければより理解が深まりますので一度はご自身の目で確かめていただければ幸いです。


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