学校からみる併合時代

小学校1

皆さんに当時の学校をお伝えできるのも開校以来、歴代校長が記録し最後の学校長山本 勝大氏によって総まとめされたものが、昭和41年(1966年)鯨岡 昇先生により小学校同期会会員に配られことによるものです。
困難な引き揚げの中持ち帰られた貴重な資料、それが父達の第35期生柳会会誌「柳3号」(平成15年・2003年)に掲載されました。

校舎に柳の大木があって親しまれていたところから35期生同期会「柳会」となりました。木は在校中に落雷で倒れたそうです。


昭和17年・1942年校舎を背景に撮影「柳3号」より

写真撮影時の教職員名簿朝鮮総督府及所属官署職員録(昭和17年)

鯨岡氏の他、上写真の平田氏の名も。は下の柳会名簿に掲載されていて2003年時点で死亡または所在確認が取れなくなっていた方になります。は当時健在だった方になります。

写真を見る限り、何ら本土の学校とかわらないのがお分かりいただけるのではないでしょうか。3年1組の写真には二宮尊徳像も

クラス写真の児童には朝鮮人の子供も入っています。龍山は日本人居留地から発展したとはいっても、戦争中、普通学校(朝鮮人用)と尋常小学校(日本人用)が統合された国民学校にあっては区別はありませんでした。
いわゆる皇国民化教育というものです。


2003年、まだ先生をお勤めだった方も多数ご健在であり、旧生徒達と交流していました。
資料を参照すればこのようにその人物の過去と現在(2003年)も確認でき、ご本人のみならずご家族からも詳細かつ多方面からの証言を得ることが可能だったわけです。

point1990年代より朝日新聞社の報道と一部の弁護士歴史学者により世界にまかれた慰安婦強制連行説・・・その後に起こった真偽論争。
どちらにも朝鮮より帰国した日本人の証言がありませんよね。
河野談話を出した1990年代ならばもっと多くの生存者・家族から証言・資料(引き揚げの中持ち帰られた個人の写真や記録)が手に入り、広く国民レベルでの具体的な真偽論争ができた筈ですが・・・結局日本は自らそのチャンスを潰してしまいました。

上の写真は仁山試力行軍(龍から川)といって、朝から京城の学校を出発して港のある仁川まで約40キロの行程を一日かけて歩く行事の写真と賞状です。
内鮮一体の皇国民化教育(日本人と朝鮮人は一つである、天皇陛下の子供として勉学に体育に励め、強い国民となり戦争を支えよ)のなか写真の通り男女の区別なく歩きました。

途中は当然朝鮮人の多い集落を抜けるわけですが、治安が良いので先生の付き添いだけで行なわれました。ほとんどの回で脱落者はなく、最後の子供の到着を待ち汽車に乗って戻る夕刻、歩き疲れた子供達は龍山駅に到着して先生方に起こされるまでぐっすりと眠っていたそうです。


上が今のInchon(仁川)とSeoul(旧京城)この2つの距離が約40キロと近いことがのちに悲劇を生みました。

下が併合時代の仁川の地図。
地図中
仁川駅。駅が港の中にあり周囲にも学校(高女校・普校・商高等)・公園・公会堂の表記あり。

point慰安婦・徴用工強制連行説を唱える人達によると、朝から子供たちが授業を受け、頻繁に行事で仁川外からも他の学校関係者が訪れるなか、泣き叫ぶ朝鮮人が運び出されていたということになるわけです。

依然として日本人の中にも、同じ太平洋戦争を朝鮮で生きた人達の話を遠ざけて、朝鮮において日本人が朝鮮人を襲っていただとか、朝鮮人と戦っていたかのような誤解を招く発言を行う人がいるのは残念なことです。

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