学校から見る併合時代2

小学校2

今回は沿革史(元町小歴代校長の記録)より明治部分をご紹介します。

京城元町公立小学校沿革史

沿革史・明治編
明治36年2月 京城日本警察署龍山巡査駐在所の一部を校舎にあてて開校。児童数7名
明治37年9月 龍山総代役場の一部を校舎にあてる。児童数15名
明治38年11月 印刷局用地の一部を借りいれて校舎を建築し、公立龍山小学校と改称する。児童数27名
明治39年9月 1教室増築。男子40名・女子37名を2学級に編成する。

仁川港・釜山港の基礎的な近代化(帆船ではない大型の汽船が入港・接岸できるための工事)が一段落。日清・日露戦争にともない軍事予算を回して鉄道敷設作業が一段と進んだ明治30年代後半から家族をともなっての入植が加速しました。

当然ですが学校はここだけではありません。続々と釜山、仁川など日本からの玄関となる場所と王都京城に作られていきました。

京仁鉄道開通式・明治33年(1900年) 全額日本負担で開通も、式典ではキチンと韓国・日本両国旗が掲げられています。

学校開校当時の停車場周辺 不鮮明ですがの周囲が駅と思われます

point韓国への人材派遣については日本側は気をつけていました。
朝鮮半島を狙う西欧諸国の横やりと地元韓国の王族両班やんばん(特権階級層)の不興をかうことのないように官吏(役人)及び民間人でも、中長期的な作業にあたるものには妻帯者を選んでいたそうです。ですので独身者には事前に見合いを持ち掛け結婚させてから送りこむというのが慣例になっていました。
地元の婦女子とのトラブルはさらに(天皇陛下)の名を汚すものになるからでもありました。当時はまた天皇=神の時代でした。
私の祖父も事前に見合い・結婚をしてからの朝鮮行きの命令でした。

明治40年4月 仮校舎3教室増築して高等科1・2年を併置。11月さらに元町2丁目に借家を求め2教室増置。児童数348名7学級
明治41年3月 16日在外指定校化。この年より義務教育6年になる。高等科の併置。
4月の新入児童170名となり、鉄道管理局龍山出張所構内元陸軍倉庫2棟を借りて仮教室とする。
明治42年11月 1日、漢江通りの新築校舎落成式及び御真影拝戴式を挙行する。
この時この校舎を龍山尋常高等小学校の本校とする。
元町の校舎を分教場に。児童数864名教職員18名
この分教場が現在の元町小学校となる。
明治44年9月 9月児童数の増加激しく文平山麗の地を開拓して校舎新築。12月竣工。
12月22日釜山尋常高等小学校校長鈴木総次郎氏が龍山尋常高等小学校訓導(先生)兼校長に任命され元町尋常小学校校長を兼任する。
明治45年1月 30日、新築落成式・開校式を行い、京城元町公立尋常小学校となる。
教育勅語謄本を下附される。

明治40年は明治維新後の皇室近代化の象徴として嘉仁よしひと親王(のちの大正天皇)が渡韓され韓国皇帝とお会いになられました。
この時出会ったのが李垠りぎん殿下(上のルビは日本語表記。現在はイ・ウン表記が普通)です。朝鮮・満州の日本人(ただし秘密を知る者に限る)に、本国より昭和14年新しい計画が伝えられるまで最重要人物(韓国皇帝候補)とされた方です。

明治40年代後半の朝鮮は日清・日露と2度の大戦も終わり安定しました。
当時は1家族あたりの子供の数も多い時代でした(2~3人は当たり前)。それでも、児童数が劇的に増えていっているのがおわかりになるでしょう。

それだけ親とともに渡鮮したり、現地で生まれた子供の数が多かったということです。
普通に船で渡り、朝鮮人の家主あるいは代行した日本人(不動産屋)から家を借りて住む。日本と変わらない状態でした。

現代でも残る、この時期でも激しい日本への抵抗運動があったという説や朝鮮人と最後まで戦争してたいう説はどこから出てきたのでしょうか?
そんな危険地帯で毎日子供が友達と歩いて学校に通う・・・
朝鮮で実際に生活していた日本人たちの実態とはかけ離れすぎています。

point御真影(国から渡される天皇・皇后両陛下の写真)・教育勅語(明治天皇の言葉による教育の基本方針を記したもの)は、太平洋戦争終了までの日本の学校教育現場にあって神聖にして厳重な管理を要するものでした。
夜間照明も防犯カメラもない時代、朝鮮・京城は安全な場所だからこそ許可されたわけです。

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