写真で見る併合時代1

朝鮮写真帖

韓国が併合され日本に組み込まれると、早期近代化のためそれまで以上の資金(日本の税金民間投資)を注ぎ込みました。実はこの全体像(いったいいくら使い込んだのか)は今となっては分らないものになっています。かなりトリックを用いていまして、本土の事情しか聞いたことのない日本人には非常に分かりにくいものです。

pointシベリア出兵(大正7年・1918~大正11年・1922)の莫大な戦費はそのまま軍の予算として消費された訳ではありません。一部は軍の円滑な移動を理由とした鉄道敷設工事道路整備費用として満州まんしゅう経由朝鮮半島近代化に回されました。

先に龍山りゅうざんが日本からの京城けいじょうへの入口・満州への通過点と書きましたが、大正6年に朝鮮司令部の目と鼻の先にある龍山鉄道局から満州に本社のある南満州鉄道株式会社に大正14年(1925)までの間、工事の管理・監督権を移すという、日本からの監視(野党や朝鮮に入れ込むことを不満に思う層)の眼が届きにくい状態にしています。わざわざその為の事務処理に満鉄から理事を一人朝鮮に常駐させています。これはもう一つの大きな計画の為でもありました。それはのちのち。

朝鮮鉄道状況 第十二回(大正10年12月)

そうやって捻出ねんしゅつした予算がふんだんに使われた近代化工事の成果が収められたのがこの写真帖(大正10年)になります。


京城けいじょう(地図は昭和8年時) □赤が朝鮮総督府そうとくふ(大正15年竣工しゅんこう) が南大門通り □青が朝鮮銀行 □緑が公会堂 オレンジが朝鮮ホテル


南大門(上記地図)写真です。写真左が旧来の幅の南大門通り、右が日本により拡幅工事されたものになります。この後、路面電車も通されて現代のソウルへと受け継がれる近代都市として大きく生まれかわりました。


左上が朝鮮殖産しょくさん銀行 右下が朝鮮銀行(上部地図) 金融の仕組みも日本式が入れられ、未成熟だった朝鮮の経済発展の為の融資を本格的に行いました。


右上が京城公会堂(上部地図) 左下が朝鮮ホテル(上部地図) 韓国時代にはなかった公共施設やホテルなども作られると演劇や外国の楽団を招いたクラシックコンサートなども催されました。


道路も曲がりくねったものが整備され街路樹が植えられています。禿山はげやまは治水面でも深刻な問題でもあり日本は積極的に植林をしていきました。私の父達京城の小学生(1940年代初頭)も学校の授業の一環いっかんとして植林したそうです。


農家の窮状きゅうじょうを救うことは安定統治に欠かせないものでした。増産された作物は食料自給率の改善にとどまらず、整備された鉄道・港湾設備を使い満州・内地ないち(日本)へと送り出され(輸移入ゆいにゅう)さらなる朝鮮経済発展(ライフラインの整備や学校・病院建設など)の原資にてられました。上の写真は干拓かんたく 下の写真は米の検査


京城水道水源地 きれいな水は疫病の予防だけに限らず、医療、工業、酒や飲料を含む食料加工業、繊維産業の発展にも欠かせないものでした。
太平洋戦争後しばらく韓国の配管が細く生活に様々な支障をきたしていたのは、このころから始まった敷設ふせつ作業のものが改善されずそのまま使われていたからです。当時は日本もトイレは水洗式ではなくみ取り式でした。
明治後年に配管類も国産化が進み大阪や九州の工場で生産、
それを下関港・博多港から運んでいたそうです。その為戦争後に生まれた韓国が日本と断絶したことと、終戦時の混乱で敷設図面が散逸したことで、のちのち漢江の奇跡を演出した岸信介氏などの助力により再び日本の支援が入るまで手がつけられなかったのです。


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