学校教育導入

概要

朝鮮年鑑(大正15年版)

学校教育の充実は朝鮮総督府の重要な仕事のひとつでした。「韓人の近代化を助ける」から併合後の「朝鮮人の近代化を一層進める」になっても基本は変わりませんでした。

全道(13道・日本では県に相当)全てに学校を設置していき、男女問わず適応年齢の児童は小学校に通わせるが目標でしたが、大正末期でも受け入れる地方の予算の兼ね合いもあり、上資料にあるようにまだ古い書堂しょどう(現地ではソダン・日本でいう寺子屋)に頼っている部分もありました。日本側は不完全な教育機関として普通学校(朝鮮人児童用の小学校)に置き換えたいとしていましたが、指導にあたる日本人の絶対数が少なかったため昭和10年代でも残っています。

朝鮮の併合の真意を示すものとして本土の地方都市にもなかなかなかった総合大学の設置があります

総合大学を作るということは建物だけではなく設備、学術参考書、教職員、運営予算など、とてつもない金額がかかるため日本でも簡単には設置が出来るものではありませんでした。
ましてや朝鮮京城に作るのですから、海を越えて建築資材、学術参考書の搬入をしなければならないため当然予算は高額になります。

それが可能だったのは、「一視同仁いっしどうじん東京京城二つの帝都分け隔てなく開発しなさいという亡き明治天皇陛下の大御心おおみこころ、そのことを平素から朝鮮半島の日本人に伝えた伊藤博文の考えが併合後も引き継がれたものだからです。

そして、もうひとつこの時期に設置を急いだ理由があります。
実はこのあと予定していた朝鮮独立の際、京城に大学が無いというのは新韓国の近代化を停滞させるだけでなく、著しく国の格式を下げてしまうという判断からです。朝鮮独立計画はのちに。

京城大学は渡鮮定住した日本人子弟だけではなく朝鮮人子弟にも門戸が開かれ、昭和に入ると京大けいだい生は全鮮受験生のあこがれとなりました。
この大学が太平洋戦争敗戦後朝鮮人の学校管理者の方達に託され、混乱を乗り切ったのちソウル大学となりました。

この学校管理者のお一人が、私の祖父達が日本に帰る際に様々な便宜を計ってくださった方でした。旧日本軍の軍人として祖父の弟(叔父)の陸軍大佐の部下として軍務経験を積まれたのちこの職にお付きになっていたそうです。
日本語が出来て、日本の風習も受け入れて下さったこの様な方達は、併合時代の日本人の頼もしいパートナーでした。そして、朝鮮戦争ののちの新しい内鮮一体の戦いもこの方達なしにはありえませんでした。


すでに朝鮮においても児童の身体測定がおこなわれているのが分かります。
在内地内地人とは日本本土の日本人児童、在朝鮮内地人は朝鮮在住の日本人児童、それと朝鮮人児童。三様の平均を調べているのは差別ではなく区別です。
ここもいづれ取り上げる朝鮮独立・新韓国建国計画が分らないと資料を見誤ることになりがちです。

この時代から各学校を卒業した朝鮮人生徒の就職や進路の状況まで把握に努めているのが分かります。

併合後、朝鮮総督府学務局が教育・宗教・朝鮮史の担当(一部は弁護士採用試験も担当)として置かれました。朝鮮総督府(学務局)の職務は天皇陛下の臣民たる児童をすこやかにたくましく、優良な国民としていくことですので内鮮人問わず官吏(役人)はそのための努力を払っていました。


上資料で学務局局長が大正14年段階で既に朝鮮人であるのが分かります。そして、下資料枠で囲っている学務局局長教員採用試験委員長も兼任しているのがお分かりいただけると思います。その他の委員名も学務局・学務課の官吏(役人)が名を連ねています。

小学校は所謂いわゆる日本人の児童用の尋常小学校、普通学校が朝鮮人の児童用の小学校ですが、どちらの教員採用も学務局局長が決定権を持っているのが分かります。
私立学校は宗教団体や民間運営の学校になります。


終戦まで朝鮮内の師範しはん学校(旧教育制度では先生になるためには基本ここを卒業することがもとめられました)は内鮮一体で日本人・朝鮮人の先生志望の学生は共学でした。
さらに学校周囲の農園・酪農家等(内鮮人問わず)の協力を得て実習を行っていました。
これは機械化など望めない当時、繁忙期には人手がいるため農家の子供は学校を休むことが多くなったそうですが、無理解から親をむやみにせめたり児童を無理やり学校に来させたりしないような配慮を学ばせる側面もあったそうです。
こういう不満はそのまま日本の統治への反発になりかねないからでした。

昭和6年(1938年)には各地方費立師範学校は廃止され官立師範学校(京城・大邸・平壌・京城女子・質のバラツキをなくすため大型図書館等教育設備充実の都市に集中)となりました。

朝鮮人生徒を教え導くため日本から様々な分野の教育者が送り込まれました。その指導を見て学んだ朝鮮人の生徒が次の指導者になっていったのです。

日本人の教育者の中にも未だに、慰安婦の強制連行を証拠も示さずしつこく言い立てる人がいるようですが、先人達をはずかしめて何がうれしいのでしょうか。

朝鮮人留学生の数も実態把握のため事前に届け出るよう通達されていました。
専門性の高い学校も随時作られてはいましたが、本土に比べればまだまだ及びませんでした。
そのため優秀な学生はつたない日本語でも、何とか立身出世、先端の学問を学ぶため親類縁者の支援や借金で日本へと渡っていきました。

pointそのうちの決して少なくない数の人達が、日本での体験で朝鮮の内地人の姿と全く異なる物を見、体験して反日に染まって帰ってきました。
この内外(内地日本、外地朝鮮)温度差が、今日キチンと報道されることも学校で教えられることもないため、巨大都市京城建設と朝鮮の近代化をした日本在日韓国人や朝鮮人の方達の日本に来たら壮絶な差別があったという体験談がかみ合わない原因となっています。