学校教育導入 諺文(ハングル)

普通教育(1)

併合から昭和初期までは国語を常用する者(内地人)国語を常用せざる者(朝鮮人)と分けて運営されていました。国語とは日本語の事で朝鮮語はあくまでも朝鮮人の言葉という扱いをされ在鮮内地人(朝鮮に住む日本人)児童は朝鮮語を習うことはありませんでした。

私の父が解る朝鮮語はキムチ・チャンパン・カクテキの食べ物系と両班やんばんサラミという程度で別にそこで生活していなくても解るものだけでした。

旧韓国併合は学校教育を充実させた一方で初期のこころざしが薄まり日本式への組み込みとなりました。
しかしそれまでなかった近代学問を身分差なく学べる学校施設の建設、識字率が著しく低かった朝鮮半島において諺文おんもん(ハングル)の普及をはかるなど現代へと通じる大変化を及ぼしたのも事実です。


  朝鮮語学史(1940年)

上資料は諺文おんもん(ハングル)教育がどの様に変化したかをしるしたものです。
資料はこの他に旧韓国で諺文おんもんがいつ生まれ使われていたのかまで記されています。
併合後は日本人の学者と共に朝鮮人の学者がたびたび会合を開き近代ハングル教育を作っていきました。

諺文綴おんもんつづり字法研究

これは韓国併合後に起こった會合かいごう(会合)である。
すなわち従来の普通学校でしようせられた朝鮮語読本諺文綴おんもんつづり字法が極めて煩雑はんざつ(面倒なくらい複雑)であって、児童教育上不便の点あるを認め、之を平易へいい化(やさしいもの)せんとし学務局主裁の下に成立したものである。

委員は国分象太郎・新庄順貞・藍川一太郎・高橋亨・玄櫽・兪吉濬・姜華錫・魚允迪の諸氏しょし明治四十四年七月二十八日第一回、爾後じご(それ以降)同年十一月まで五回の會議を開き、翌四十五年四月にいたって確定した。
其の結果は直ちに朝鮮総督府編纂ちょうせんそうとくふへんさん普通学校用朝鮮語及漢文読本に採用せられた。

然るに其の後総督府はを普通教育に於ける諺文綴字法修正の必要を感じ、大正十年三月綴字法に関する調査會を設け、金澤庄三郎・魚允迪・藤波義貫・田中徳太郎・玄〇・申基徳・池錫永・玄櫽・柳苾根・崔斗善・權悳奎諸氏を委員として之を審議せしめ、前回の綴字法に対して若干の修正を加えた。

諺文綴字法調査會おんもんつづりじほうちょうさかい

従来朝鮮総督府編纂の朝鮮語読本等に使用せる諺文綴字法は、前述のごとく明治四十五年決定したものを基礎として、大正十年更に多少の修正を加えたものであった。
しかるに、総督府は其の後にける實際じっさい教育(教育現場)の経験と、社會に於ける綴字運動の趨勢すうせいとにかんがみ、更にこれを修正するの必要に迫られ、昭和四年五月諺文綴字法調査會を設け、西村真太郎・帳志瑛・李完應・李世楨・小倉進平・高橋亨・田中徳太郎・藤波義貫・權悳奎・鄭烈模・崔鉉培・金尚會・申明均・朕宜麟諸氏を委員に依託し、之を調査せしめ、其の結果は昭和五年四月以降発行の普通学校用教科書に採用せられ、今日に至って居る。
前数回の諺文綴字法に比して著しく整理せられ、理論的になって来たが、一方学習上の困難を伴うことをいなみ得ない。

朝鮮語学會

前記官廰側の諸調査機関とは別箇に、昭和六年一月朝鮮人民間みんかん側に朝鮮語学會なるものが創立せられ、會員かいいん相互の熱心な研究の末、同八年「朝鮮語綴字法統一案」なるものを決定発表した。
本案の要は、標準語を発音通りに表記し、綴字法を語法に合致せしめるを以て原則としたものである。

このように明治44年(1911年)から昭和8年(1933年)まで20年近く、諺文おんもん(ハングルの)教育が様々な内鮮人(日本人・朝鮮人)専門家の手により改良が加えられ、普通学校教育として朝鮮人の児童に対して行われていきました。

上記文中に登場する複数の方が各種委員会委員一覧で確認が出来ます。
高橋亨(小学校及普通学校教員試験委員・私立学校教員資格認定委員会)
魚允迪(朝鮮史編纂委員会)
田中徳太郎(朝鮮総督府そうとくふ及所属官署職員朝鮮語奨励しょうれい試験委員)
西村真太郎(道警部及警部補特別任用考試委員)

point韓国では併合後日本は民族の言葉を奪ったという教え方をしているわけですが、全く違う実態だった事がお分かりいただけたと思います。
注意しなければならないのは日本の教育関係者や新聞社の中には、何故かそれを知りながらあたかも日本がドイツのような民族浄化まがいのことをやっていたかのように言っているという事です。
日本側の資料を複数照らし合わせていくと、当時の記録の正確性が判断でき皆さんの歴史認識の構築に役立つだけでなく、政治的な意味で作られたまやかしを退けることが出来ます。

大きな変化は昭和11年以降におきて、その後昭和20年(1945年)終戦までの間は学校教育現場においては国語(日本語)のみの教育になっていきます。これはまたのちに。

引き揚げ日本人の集まりにおいても、このことについては大変申し訳ない事をしたと反省の弁を述べる方は当然多かったわけですが、何をもって申し訳なかったのかが一般の人に伝わらなかった・伝えてくれる人がいなかったというのが今日の日韓相互の対立に繋がっています。


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