きっかけはフジテレビ

右や左の台場サマ

こちらが父達の京城元町公立国民学校・第35期生・柳会最後の集いとなった2011年・
8月・18日のお台場での写真となります。

父が病に倒れ介護中の為、付き添う自分が右も左も判らなければ困る、少しは会場や周辺の病院の場所を調べておこうと久しく遠ざかっていたパソコンに向いインターネット検索をしたのは8月の頭だったでしょうか・・・
ホテルのあるお台場を検索してはじめて嫌韓運動テレビ局にデモが呼びかけられている事を知りました。

なんで保守系新聞社のテレビ局が?と不思議に思いましたが、靖国神社参拝問題が起ろうと慰安婦強制連行問題が起ろうとそれが否定されようと、一度たりともどこからも調査依頼も資料提供も呼びかけられることもなかったことでもあり(私が知る限り、どうも柳会だけでなくどなたもされていないようです)完全に他人事でした。


当日の一コマ。背を向けてっぺんが光ってるいるのが亡き父です。
何しろ父達が昭和8年(1933年)、先生にいたっては大正のお生まれですので、ネットからリアルへと嫌韓運動が燃え広がっていることなど話題にもなりませんでした。
さながら台風の目の中に居た感じでしょうか。

子供の頃からこういう集まりに連れ出された事が、戦後生まれの自分が日韓問題を考える為の資料を紹介するだけでなく、簡単な併合当時の状況説明を添えられる学習の場となりました。

私が記念にホテルから撮ったテレビ局イベントの光景です。この局が夢大陸どころか暗黒大陸に行ってしまうとはこの時は思いもしませんでした。

介護を終えたのち(2015年初頭)にデモ当日の写真をネットで見ましたが、社員の人でしょうか笑いながらデモ隊を見下ろしている光景がありました。
デモの3日前、まさか自分達の目と鼻の先で日韓の歴史の違いを最もよく知る人間が集り、その中の一人(私)が同じ様にニヤニヤしながら写真を撮っていたとは思わなかったことでしょう。

デモ後テレビ局にとっての不治の病ともいうべき深刻な視聴率低迷に襲われたのは承知のことと思います。
ろくに対応ができないテレビ局がどうなろうが知ったことではありませんでしたが、深刻に感じたのは誤情報が流れていることと感情のぶつかり合いになってきている事でした。

「売り言葉に買い言葉」と言える様相にさすがにいい加減な自分もこのままで良いのだろうかと心配になると同時に、自分が子供時代から聞いたこと体験したことを残さなくてはいけないのではと思うようになりました。

そこで、誰が見るのか分からない、需要のないものでもやっておこうと準備をはじめ、やっと形にできたのがこのブログになります。




毎年複数回全国から朝鮮より引き揚げた日本人が顔を合わせていても、その人達の兄弟が健在で別の会合が在り、そのことが席上話題にのぼっても、学者ジャーナリスト弁護士誰ひとりとして姿を見せたという話が無いのは不思議なものでした。

写真をご覧いただくとお分かりになると思いますが、本気で政府なりあるいは野党なり学者なりが慰安婦の問題を調査したければ、参加者の数は少なくなったとはいっても2000年代でも可能だったわけです。
もう手遅れですが・・・あるいはそれを狙っていたのかもしれませんがどうなんでしょうか。

なにしろ軍令部のすぐ側(現在はソウル)で生活し、この人達の父親は民間人でも総督府建設京城大学建設に活躍したり、完成後の総督府庁舎勤めの官吏から軍令部所属の軍務経験者警察官教師医師などであり重要情報に触れていた人達も多かったからです。

いったいこの人達に話を聞かずに何が分かるというのでしょうか。
国立国会図書館の資料にすべてが載っていることなどあり得ません。
たとえ歴史学者であろうと内地(日本本土)から太平洋戦争終了まで出たこともない人間に朝鮮・満州の実態など理解できることもあり得ません。
当時の風潮として守秘義務は絶対であり口頭伝達が多用されていた時代のことです、人にあたらねば分からないことが多いことくらい常識というべきにもかかわらず誰も来ませんでした。


戦後、安否確認を兼ねて親睦会や同期会が全国で作られると次第に当時の情報の共有化が計られていきました。
要は持ち帰ってきた写真や資料、戦後記憶にあるうちにと各々住所を示して作った京城の地図(かなり詳しく個々の名前や施設が載っているものでした)などを持ちより思い出話に話を咲かせたわけですが、互いの記憶の補完がされていく貴重な場でもありました。

この朝鮮引き揚げ者達のネットワークを、朝鮮戦争後日本の安全保障上の大問題となった韓国問題解決のため利用した政治家が岸信介さんになります。それはまた後日詳しく。

point上の写真は当時京城で売られていたおみやげ用の絵葉書です。
絵はがきに英語の説明文がついているのにも意味があります。西洋人のおみやげ用だけでつけていたわけではありません。
これは、植民地支配を受けている東洋の国(主に東南アジア)の宗主国(支配国)は英語圏が多かったためです。日本語より馴染みのある英語を添えることにより日本の朝鮮に対する植民地政策がいかなるものなのかを知ってもらうカタログの役割にもなっていたということです。
片言の英語が出来る搾取されているアジア人がこの絵葉書を見て、説明を読む・・・
そのとき自分たちの置かれている境遇と朝鮮の違いを知りどういう思考・行動にでるのか・・・
そこまでにらんだ興亜(アジア発展)諜報戦略の一環でもありました。

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