朝鮮志願兵制度

朝鮮志願兵制度(朝鮮年鑑・昭和15年)

韓国(旧)時代の朝鮮に存在した朝鮮人の兵役へいえき制度は、明治四十三年(1910年)に日韓併合るにおよんで廃止され爾来じらい(それから)今日まで将校しょうこうとして帝国軍人となる方途ほうと(仕方)は開かれていたが、一般朝鮮民衆の兵役服務の制度は未だ制定されていなかった。

しかし昭和六年(1931年)北満萬寶山まんぽうざん(万宝山)事件についで突発した満州まんしゅう事變(変)、並びに今次こんじ支那しな事變(変)勃発以来、目覚ましき朝鮮人の愛国精神発露はつろ(心の中のものを態度にあらわすこと)にかんがみ、今やその民度民情の進展にともなって朝鮮人にたいしても志願兵制度を施行してこれにより皇国臣民たるの鍛錬を加え、内鮮一體(内鮮一体)となって国防に寄與きよ(寄与)せしめるのが適當(適当)と認め、昭和十三年二月二十三日勅令ちょくれい(天皇による命令)第九十五ごうをもって「陸軍特別志願兵令」が公布こうふされ、四月三日神武天皇祭の佳節かせつ(祝日)をぼくして(縁起のいい日を選んで)施行しこうされ、ここに朝鮮志願兵制度が制定された。

なお本制度の實施(実施)にあたっては陸軍特別志願兵令のほかに、陸軍特別志願兵施行規則、朝鮮総督府そうとくふ陸軍兵志願者訓練所官制、同所規程きてい、同所生徒採用規則、同生徒採用手続等の関係諸法令が引続き公布され、四月三日から同時に施行された。

これにより朝鮮総督府では朝鮮軍と緊密な連携をり各法令の規定にもとづき、三月二十日陸軍特別志願兵訓練所昭和十三年度入所生徒約四百名の募集を行ったが、鮮内各道勿論もちろんのこと、内地その他の在外朝鮮人青年も続々と應募(応募)し、いずれも烈々れつれつ(はげしい)たる意気を披露して志願し総督府・軍當局・地方官廳(官庁)・警察署等の當局者を驚かし、第一回志願希望者数は三千五百名の多きに達した。

内鮮一体となって国防に寄与することを認め、志願兵制度を天皇の命令で出しているのが分かります。日本側は朝鮮人を差別していたのではなく言語文化・風習の違いから当分日本兵にするのを見合わせていただけでした。
戦闘時、国(日本)のために戦う気構えと日本語が理解できなければ、命令通りの行動はとれません。それは部隊全体の生死に関わる問題にもなるからでした。

それが満州事変以降、朝鮮社会の日本化が加速し屈強な兵が欲しい日本にとって好都合な事態(朝鮮人の愛国(日本)精神が燃え上ったが到来したということです。

これは満州国人といっても大半は朝鮮からの移住者であったことから支那人(中国人)側の日本に対する抵抗運動が加速拡大すると自然被害にあうのが朝鮮系日本人であったこと。
旧来から中国は朝鮮を属国としかみなしておらず朝鮮・満州の日本人と比べ態度が尊大であったため、朝鮮内でも(支那(中国)商人は古くから朝鮮半島で商いをしていました)たびたび衝突があったこと。
そのことから自分たちも日本人として生きようという気運が高まったのです。
無謀な真珠湾攻撃から太平洋戦争大敗北は想定外の頃です。国に奉仕するのが一人前の男子と学校で当たり前のように教えていた時代だからこそ朝鮮人の若者も日本軍人として立派に戦うことを求めたのです。

point日本にとって待ちに待った瞬間でした。これを逃すことなく朝鮮人志願兵制度をいれました。近い将来皇帝を擁立し韓国として朝鮮を切り離すために・・・
独立計画は後々しますが、新皇帝候補者が総監より一部官吏にのみ口頭伝達されたのは昭和14年となります

当時、自らを皇軍こうぐん(天皇の軍隊)としていた組織にとって勅命は絶対です。
さらに、将校とあるように勅命が出された時点ですでに陸軍士官学校を卒業したり、師範学校を出たのち採用された朝鮮人エリート軍人として軍務に就いていました。
(併合時より日本語が出来る朝鮮人は貴重だったため、軍は師範学校卒業者にも士官への道を提供して人材を確保していたそうです。師範学校生は将来教師として子供達に教えるため日本人の道徳理解・修得が求められていました。終戦後京城大学を日本から引き継がれ管理された方も、その様な経歴で祖父の弟の陸軍大佐(朝鮮軍として京城勤務)の部下として軍務をつまれていたそうです。

将校は徴兵され本土より配属された一般日本兵の上に立つ存在でした。
階級一つ違えば自分より年若い人間にも敬語で服従する組織です。朝鮮人側から、時に尊大な顔を見せる日本人の上に立てる職業として人気があったのはいうまでもありません。

朝鮮人志願兵がどこで指導・訓練を受けてどこから出征していかれたのか、それが上の地図になります。先に周辺情報は書いていますのでそちらをご覧ください。

オレンジ枠内が軍施設で、右下の方が練兵場れんぺいじょう(軍の訓練場)となっています。
このような場所で昭和13年以降終戦まで連日、日本人の教官から指導・訓練され朝鮮人日本兵が誕生していったのです。


写真上のような訓練後東南アジア方面へはの龍山駅施設を使い汽車で釜山に下りてのち輸送船にて出兵。満州・北支方面へも龍山駅、又は地図上方京城駅から出兵されました。

が父の通った京城元町公立国民学校、が伯母達(二女・三女)が通った第二高等女学校になりますので、ごく自然と朝鮮志願兵の応募に来た朝鮮人、訓練を受けている朝鮮人、そして日の丸がふられる中出兵していく朝鮮人日本兵を見ていたということです。

最近なにかと取り上げられる旭日旗ですが、写真のように歩兵連隊旗として掲げていますが、戦犯旗などといわれるような使い方はされていません。
基本「晴れの日」に使うものですので、併合時代も式典・出兵などに使われていたくらいです。朝鮮領内は戦地ではありませんので、道知事や総督府総監からの要請がない限り駐屯している軍は出動できませんでした。
当時は徴兵される=お国に奉公できるでしたので「出兵の晴れの門出を祝う」と、より目出度さを強調するものとして朝鮮でも日章旗(日の丸)と併用していました。

他に「中心から光が四方八方に広がる=敵をなぎ倒し戦果が広がっていく」
「興亜を願う大御心おおみこころ(当時は天皇=太陽)が大陸に広がっていく(アジア解放が日本によりなされる)」
「インフラが広域に広がっていくさま(郵便も鉄道も水道も電話も延伸は便利になるため)」

それらに関係ある式典や記念物などで旭日旗を使っていました。

このように朝鮮人日本兵も日本兵と肩を並べて出兵されたもので太平洋戦争の是非は別に、韓国の物言いは別に、同時代を共に生きた、戦った朝鮮人が数多く居られたことは是非忘れないで頂けたらと思います。

写真左上が特別志願兵制度が生んだ最初の朝鮮人日本兵戦死者・李仁錫一等兵(死後特進のため上等兵)。支那(中国)戦線にて左大腿部爆傷ばくしょう、出血多量にて戦死。功七級金鵄勲章きんしくんしょう授与。
このあと李亨洙以下続々と戦死、東京の靖国神社に祀られ朝鮮半島の内鮮人(日本人・朝鮮人)戦意維持・高揚のため宣伝されていくこととなりました。

現在の韓国側・日本の新聞・テレビ等で流される終戦までの日本との関係この部分が事実上消えているか、強制的に日本兵にしたかのような錯覚を持たせるものとなっています。
しかし、この方たちは自ら志願・試験を通ると猛訓練を堪えて日本の戦争に加わり日本の大東亜戦争(太平洋戦争)を支えたのです。

そして国内復興を優先する日本は玉音放送後、大東亜共栄圏の夢破れ用済みとなった朝鮮ごと(朝鮮在住日本人・日本人になろうと積極的に活動していた朝鮮人)この方たちを見棄てました。
このようなことが日韓関係改善が朝鮮戦争勃発(1950年)後の日本の新たな安全保障問題
として早期に解決すべきものになりながら出来なくなった原因の一つとなりました。

この難問に取り組んだのが、岸信介を中心とした政治家・民間活動家・朝鮮引き揚げ者の一部・満州引き揚げ者の一部・旧日本兵と戦友として戦後も親交のあった在日韓国人(旧朝鮮人日本兵)となりますここはまたのちに。

point終戦後、遠い戦地からこの方たちが復員ふくいん(戦地から任務を終え戻ること)するまでの間に朝鮮総督府は統治機能を失い救ってくれたアメリカ軍側の言うがまま引き継ぎ業務を行うと撤退しました。
結果この方たちが故郷(朝鮮半島)に戻ると民族の裏切者というレッテルを貼られた過酷な人生がまっていたのです。

私の周囲でも併合時代の朝鮮に靖国神社があって参拝を強要していたかのような誤解を持っている人がいますが、靖国神社は朝鮮には作られていません
父達の話によると、軍の式典・出征兵士の祈願類は朝鮮神宮が多く使われていました(写真上右の排英大会(反イギリス集会)も朝鮮神宮にて開催)
終戦時まで朝鮮では靖国神社の存在は式典・出版で戦死者をたたえる際か学校の授業で皇国民としての教育を行う際に名前が出るくらいだったそうです。ですので、靖国神社は朝鮮においては日本のような存在感はなかったそうです。
1980年代から唐突に起きた靖国参拝問題の日本政府のいい加減な解決の仕方が次の慰安婦問題を招いたと言えます。


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