日本人と朝鮮人

前進する朝鮮(1)

前進する朝鮮(昭和17年・1942年)

突然の真珠湾攻撃より始まった大東亜戦争だいとうあせんそう(太平洋戦争)は最重要機密を知る(開戦前年の昭和14年新韓国皇帝候補と独立時期の伝達)一部総督府官吏そうとくふかんり戸惑とまどわせるものでしたが、内鮮一体ないせんいったい方針はそのままに本国東京の始めた戦争に引きずられていくことになりました。
独立準備と直近の戦争にはさまれた朝鮮の状況をよく表したものがこの「前進する朝鮮」になります。

朝鮮神宮皇軍(日本軍は当時天皇陛下の軍隊でしたので自らこう呼んでいました)の武運(戦いに勝利し無事に戦地から戻ること)を内鮮人が共に祈っている写真になります。
手前白衣の二人は朝鮮人になりますが、朝鮮社会も日本人に習って洋装が増えていたので他の人達が全員日本人なのかは分かりません。
この写真一枚でも、戦争中でも朝鮮の伝統的な白衣は禁じて居らず、併合中日本が朝鮮文化を奪ったという戦後の韓国側の言い分がかなり誇張されているものだと分かります。


太鼓を始め楽器が日本の物と違うのが分かります。戦争中「内鮮一体」方針のもと朝鮮総督府が進めた皇国民教育により、朝鮮人が併合後半の学校教育において民族の言葉である朝鮮語と諺文(ハングル)の学習機会また民族の文化習得の時間を奪われたのは事実ですが、実生活において朝鮮語を使えなくしたり、伝統文化を日本側が徹底的に禁じたようなことはありませんでした。
あくまでも、日本の文化風習・道徳観を共有でき日本語を理解できる韓国人を増やすための効率化であって、朝鮮の文化を否定するものではありませんでしたので民族衣装も着たければ着ることは出来ました。
下写真のように広々ひろびろとした袖口そでぐちと白が特徴の朝鮮民族の衣装をまとった古老を昭和17年の出版物に載せているわけですから一目瞭然です。


一、序章

傳説(伝説)の記録

伝説はどこにでもある。それは歴史の前にある歴史である。それは語りつがれた太古の生活詩であり豊かなる民族の頌歌しょうか(ほめたたえる歌)である。私共はその茫漠ぼうばくたる(広々ひろびろとした)衣装の中に遠い祖先の眞實しんじつの流れを見る。

上の写真を見たあとで「前進する朝鮮」の書き出しを読むと意味深なものを感じられるのではないでしょうか。何を言わんとしているのかここから始まる文章を読むことによって、内鮮一体に隠された真の目的が分かります。

三姓穴

朝鮮最南端の島である済州島さいしゅうとう三姓穴さんせいけつと呼ばれる伝説のほらがある。
の島は全南木浦(全羅南道ぜんらなんどう木浦もっぽ)の港から多島海たとうかいの島々をって南に百浬ひゃくり、周回二百五十粁250キロメートルにも及ぶ朝鮮第一の大島であるが、最南端であるだけに朝鮮では最も暖かく、伊豆や小笠原の諸島の様に婦人の働くので有名な所である。

何時の頃であったろうか、年代すらも定かではないが【年代が定かな位であればそれは既に傳説でんせつ(伝説)ではない】突然此の済州島に三人の神人が地から湧出ゆうしゅつした。その名を良乙那、高乙那、夫乙那といい、暖い所であるので、此の神人達は毎日海に漁し山に木の實このみ(実)を求めて仲良く平和にその日を暮らしていた。

る日の事である。東海の岸邊きしべ(岸辺)に紫のふうほどこした大きな木箱が漂ってきた。これを開くと一つの石凾せきかん(石の箱)があり、くれないおびに紫のころもを着けた使者が随従ずいじゅうしている。そしてはこひらけば青衣の處女しょじょ(処女・おとめ)が三人、それにこま(馬の子)やとく(牛の子)、五穀ごこく(穀物)の類が積載されてあった。

使者が言う「自分は日本の国使である。国王の言われるには、天が西海さいかい中に三人の神人をくだしたが未だ配偶はいぐうがないって我が王女三人を送る。よろしくはいをなし(夫婦になる)一心同體いっしんどうたい国開きを成就じょうじゅせよ」と。言い終わるや使者は白雲にじょうじて去った。

三乙那はすなわち年齢順に王女をめとり、五穀をき、犢駒をぼくし(育てる)、年長の良乙那を王として子孫みな繁栄した。これがの島の先祖であると。
そして傳説でんせつ三姓穴さんせいけつはいまも漢拏山麓かんなさんろくあとをとどめ、入口には蒙古風もうこふうの石像が道案内に立てられている。

眞實しんじつを求める者の温かい無慈悲むじひさをもって此の美しい物語の虚装きょそうぎ去るならば、私達は此の扮まない言傳ことづてへの中に内鮮一體ないせんいったいはるかなる祖先の姿を見ることが出来る。

三乙那以前に此の島に先住の人々があったにせよ無かったにせよ、既に三王女は大和の国から送られ、また地からいたと傳えられる三乙那東海の日づる国から降ろされた形跡十分で、當時は完全に大和の延長であり、内鮮一體あるいは内地そのもののごとくにして此の常春とこはるの島の開拓はなされたのである。

此の島は後、任那みまなの一国である耽羅とむらの国となった。

日本書紀に天智天皇八年正月、耽羅の王子久麻伎くまぎ来朝し五穀の種子をたまうと記されてあるのは直ちに此の傳説でんせつ符合ふごうするものであるかどうか、何れにせよ深い交渉のあったことは推察するにかたくない。

その後永い年月の間には多くの血の混交がなされ、また李朝時代には屡々しばしば黨争とうそう士禍しか(派閥争いと粛清しゅくせい)の流刑るけいの地となったが、の島の歴史と共にい育って来た住民の容貌骨骼ようぼうこっかくは非常に良く内地の人々(日本人)と似通っていると言われる。

説明が要らないくらい文中明示されていますが日本人朝鮮人」は血が混ざっている、元は同じ神の出と言っています。朝鮮総督府=日本政府ですからこれが征韓論を退けてから戦争終了までの正式な日本の方針でした。「日本人と朝鮮人は一心同体である」言葉通り日本と同じこと(インフラの整備・近代的学校制度導入・官吏及び弁護士、医師を試験により家柄に関係なく採用する等)をしたわけです。
そして終盤は本土に引きずられて、同じように軍国主義に傾いたということです。

pointこここで最も大事なことは朝鮮人との血縁関係を証明しようとしていたのは日本政府であり、なおかつ、それは昭和よりであること。さらに日本神話の体系に韓国皇帝一族を組み込むという計画が存在し、それはどうも伊藤博文の置き土産であったらしいということです。
これが、現在ソウルと呼ばれる都市京城の近代化計画の下敷きになっていたもので、私の子供のころから平然と周りの大人達(父や伯母の友人知人の父親が総督府や京城大学の建築にたずさわっていたり、総督府官吏として独立計画を知らされていました)が茶飲み話していたものになります。
これが予備知識としてありませんと、この資料を読み誤ることとなります。

この出版物で朝鮮総督府情報課が出した「日本人と朝鮮人の同根説」は戦争だからではないということです。先に挙げた新皇帝候補者名と大まかな即位の時期が東京より戻った総監より告げられ大正時代に一度皇帝擁立に動きながら失敗していたので、ここで強くこの考えを打ち出して内鮮一体を進めていたということです。
また日本からの使者が済州島に・・・のくだりが天孫降臨てんそんこうりん神話そのものであること、三人の神人が地からいたと言う表現は天よりつかわされた存在の登場としてはおかしいということ、五穀を授けたこと、衣を身に着けた乙女=天女てんにょであることを是非ぜひ覚えておいて下さい。

point後日取り上げますが、これらのほとんどが大正時代、ある人物によって語られていて、その出版物が存在し、それと同じ考え、目に見える形で同時期の京城の都市開発はされています。このことを含めた戦後、国民に十分に説明されなかった皇帝擁立・韓国建国計画の存在が、戦後李王家りおうけのご家族が韓国へなかなかお戻りになれなかった原因ともなったものです。


羽衣はごろもの伝説

朝鮮の最北端、満州国との境界に白頭山はくとうさんがある。の山は海抜二、七四四米2,744メートル、近世に噴出した溶岩流の山岳であるが、山麓さんろく廣漠こうばくたる(広くてしない)處女林しょじょりん(手つかずの森林)におおわれ、峰頭ほうとう(山頂さんちょう)にいたってその名のごと清楚せいそな白頭の姿を現わしている。

此のみねは頂上におよんで内側一気に陥没かんぼつし、周回十一粁11キロあまる巨大なる噴火口は青黒く満々たる水をたたえてまさに龍むかと思われるばかりの雄壮霊異れいいの大湖を形造る。天池といい、また龍王たん(深く水をためた場所・ふち)と呼ばれるのがこれである。水深は最深三百十數米310数メートルに及び魚類も爬虫類も棲まない。

大昔此の山のふもとに一人の篤實とくじつ(まじめ)な樵夫きこりがいた。
る日まきを求めての湖のほとりまで来ると、一本の松の老樹ろうじゅに色あでやかな高貴な女人にょにんころもがかけられてある。

これは良き拾い物と取ってかえ(帰)ろうとすると湖にこえあり「そは我が衣なり。それなくては天に歸ることもかなわぬ、返したまえ」という。
振返ふりかえると黒髪長く目ざめるばかりの上﨟じょうろうみ(貴婦人が水あび)している所であった。

樵夫きこりしばらくまどったが、仙女せんにょせつなるいに「ならば衣はお返し申す程にが妻となりたまえ」というと、仙女も「では、一生てんに歸らぬわけにも参りませぬから四人の子女をなすまでおそばで仕えましょう」という譯で樵夫と共に暮らすこととなった。

十年の歳月さいげつは夢の様にすぎ、二人の間には三人の子寶こだから(子宝・大事な子供)が生まれた。る日樵夫は妻があまりに天上をこい(恋)しがるのでとくして(かくして)置いた例の羽衣を出してあた(与)えると、仙女はこれを身につけたかと見るに、背に一人、両脇に一人づつ、三人の子供を抱えてあれよの間に天上に飛び去ってしまった。

此の傳説でんせつは白頭山天池のほとりともいい、また金剛山文殊こんごうさんもんじゅたんの出来事であるともつたえる。
一は樵夫、一は漁師であるだけで内地の三保の松原みほのまつばらの傳説と同巧異曲どうこういきょく(同工異曲・見かけは違っても中身は同じ)なのも面白いが、漁師は舞を一さし所望したのに對し、樵夫が結婚を求めたのは内地(日本)の羽衣に比べてすこぶる現実的である。

ただその結末は樵夫も妻のあとを追って天に上ることになっていてかえって現實げんじつから遠いものがあるが、ういった傳説の節々ふしぶしにも内鮮をつなぐ血のえに(血縁関係けつえんかんけい)がおもわれて大變(大変)興味深いものがある。

女人=天女ですので木に掛けてあった衣は羽衣はごろも(空を飛べる天界の織物おりもの)となります。

天女が帰って行ったので樵夫はあとを追って天に上ったとありますが、天に上るとはまた異界いかいの境界線を渡ることでもあります。
水浴びをしていたとあるように水のあるところ、にも関係があるということです。川もまた異なる世界への入り口を意味しているのです。
天に上る」「川を渡る」この二つは京城(現ソウル)をどういう考えで近代都市へと日本が変えたのかを知るうえでとても重要な意味を持っています。

point朝鮮総督府情報課はわかっていてこの話をもって来ているということです。
さりげなく三保の松原の伝説と同じであると日本と朝鮮のえんを強調しているだけでなく、一度失敗したため細心の注意を払って近い将来実行される予定だったことへの含みをもたせているのです。それが、いずれお話しする新韓国建国計画となります。