日本人と朝鮮人(2)

前進する朝鮮(2)

前進する朝鮮」では伝説を語り終えたあと、関心を持って欲しいと日本領朝鮮の組織本国の日本人に訴えるという奇異な文章になります。
これが「内鮮温度差」又は「内鮮認識差」という終戦まで埋まることがなく朝鮮側を悩まし続けたものです。

總起そうだちの朝鮮

さてその白頭山はくとうさんふもとから東するは全長五百二十粁520キロ豆満江とまんこう、西するは同じく七百九十粁790キロ、我国第一の長流である鴨緑江おうりょくこう、これに洛東江らくとうこう漢江かんこう錦江きんこう、大同江を加えて朝鮮の六大江と呼んでいるが、の鴨緑、豆満江の両江をもってその北を満州国まんしゅうこくと接する全面積二十二萬八百四十方粁220840へいほうキロの半島とこれに付属する島々が見栄も飾りもないわが朝鮮である。

では朝鮮とは一體(一体)どんな所だ。

多くの人はあまりにも朝鮮を知らない。また知ろうともつとめない。一部の人々は朝鮮の強い成長に信頼しきって無条件に安心し、大多数の人々は何故か殊更ことさらにこれを関心の外に置く。

殊に満州がひらけ、支那事變しなじへん(変)が進み、また南方はるかに帝国の戦果を拡大した今日では、国民の好奇の眼は益々ますます南太平洋の未知の島々にきつけられる。

極端にいえば朝鮮はほとんかえりみられない。

しかし朝鮮は今こそ大いに知っていただかねばならぬ。

総督そうとく施政以来ここに三十一年をへて(経)、文化に産業に未曾有みぞうの躍進充實(実)をとげた朝鮮は、支那事變から更に大東亜興亡の征戦せいせんへと引続いて、全半島二千四百萬人の嵐のごとき愛国の熱情をぶちまけ、真に内鮮一体、躍進と充実との総力とつくして前進基地、兵站へいたん基地としての役割を果し、艱難かんなん(つらいこと)にして偉大なる銃後の建設戦を遂行しつつある。

朝鮮はいま、大いに知られることを希望し、また十分にそれだけの値打ちはあると自信している。

二千四百萬2400万の総力である。二千四百萬人の熱鉄一丸、愛国心の総起ち総構えである。この二千四百萬という数字は、全国一億の四分の一の人口である。
内地の総人口は七千三百萬であるから、内鮮合わせて九千七百餘萬は一億の九割七分を構成する。

即ち朝鮮は内地と共に一億日本の最大の支柱である。それはただに数字の上のみでない。聖戦完遂かんすいの愛国の至誠しせい(まごころ)また断じてひけをとらぬのである。

朝鮮併合より30年。朝鮮人の目覚ましい活躍は鮮内の内地人(日本人)をして感嘆させていたのに対して、本土の一般日本人の理解・関心の無さは一向に解消されませんでした。
ほとんどの場合、明治期の頃からの未開の地の民族扱いが続き、仲間としてではなく安い労働力程度にしかみなしておらず、それを露骨に態度で示してはトラブルをおこすということが繰り返えされ留学・仕事で本土を訪れた朝鮮人を反日思想に染めていく原因となっていました。

今こそ朝鮮を知って欲しい、正しい朝鮮人への認識を持って欲しいという総督府の苦悩がこの文章から伺えます。

pointしかし訴えは届くことはありませんでした。
前線基地・兵站基地として鮮内内地人だけではなく、朝鮮人志願兵をも戦地に送り出し、残った人達が共に力をあわせて日々物資を支那(中国)満州、東南アジア方面へ供給している実態すら知らなかった、知ろうとしなかった日本人・・・
結果として敗戦後の戦勝国アメリカの情報操作、国内の反米反天皇制活動家やメディア、反日国家韓国の政治運動にも簡単に引っ掛かることとなりました。
「自分たちが朝鮮人を差別していじめていたんだ朝鮮半島ではもっとひどいことをしていたに違いない」という思い込みで・・・

前進する朝鮮」は朝鮮の概貌がいぼう(おおよその姿)として位置や面積を語ったあと、朝鮮半島の人口について触れていきます。

人口について

半島の人口は逐年ちくねん(年々)顕著な増勢を辿たどり、昭和十年施行の国勢調査から五ケ年間において減少を見たのは慶尚けいしょう南道なんどう、慶尚北道及全羅ぜんら北道、忠清ちゅうせい北道の人口比較的稠密ちゅうみつ(混みあっている)な南鮮なんせんの四道だけで、京畿道けいきどうの四十一まん二千を筆頭に咸鏡かんきょう北道二十四萬九千、平安へいあん南道十九萬二千、以下いずれも増数を示し、総計百四十二萬七千、年平均二十八萬五千という増加りを見せ、これを併合直後である明治四十三年末の千三百三十一萬三千十七人に比べれば施政しせい(日本による統治とうち)以来満三十年で千百萬人、ほとんど倍に近いいちじるしい増加となっている。

すなわち昭和十五年の自然増加率は出産率三〇.六一、死亡率十七.一五、差引一三.四六であって、併合當時の二培半の増率にあたり、事變直前の内地人口増加率一三.六五に匹敵するもので、なお今後とも皇道統治の進展に伴って一層増大を豫想よそうされるものがある。

いま人口順に朝鮮の十大都市を挙げれば次の如くであるが(昭和十五年十月現在、単位千名)

京城九三五 平壌へいじょう二八六 釜山ぷさん二四九 清津せいしん一九七 大邱たいきゅう一七九 仁川じんせん一七一
元山げんざん七九 咸興かんこう七五 開城かいじょう七二 鎮南浦ちんなんぽ六八

の中先頭の京城府の人口九十三萬五千は内地の六大都市に次ぎ、次位平壌の二十八萬六千内地第九位の川崎市に続くもの、さらに釜山の二十四萬九千も第十一位の長崎市の次にくらいし、清津、大邱、仁川等も内地の樞要すうよう都市である和歌山、熊本、鹿児島、金澤等に比肩ひけん(同じくらい)する。

これ等半島の主要都市が京城、釜山、大邱、仁川等、古来特殊の意義において発達して来った諸都市を除いて、大部分が北鮮にあり、しかも近時特にいちじるしい発展膨張ぼうちょうげつつある事實は、資源と電力との豊富なる背景に於て、大東亜征戦下に於ける産業基地朝鮮の使命と将来とを示唆する所きわめて大である。

朝鮮人口累年るいねん

年号 戸数 人口総数 男性人口 女性人口
明治43年 2804102 13313017 7057458 6255559
昭和2年 3318089 19137698 9991714 9344984
昭和8年 3952049 20791311 10581541 10209780
昭和9年 4010606 21125827 10744439 10381388
昭和10年 4142976 21891180 11116144 10776036
昭和11年 4178929 23047836 11205940 14841896
昭和12年 4237117 22355485 11352056 11033419
昭和13年 4271308 23633751 11489113 11144638
昭和14年 4291554 23800647 11541052 11259595

朝鮮年鑑(昭和16年・1941年)

明治43年(1910年)の併合後、近代医学導入・医療施設建設・疫病対策・上下水道敷設などが実を結んで朝鮮半島の人口がしっかりと増えていっているのが確認できます。
当然ですが、この詳細なデーターを集めるのも朝鮮総督府の仕事でありました。
文中に国勢調査を実施したとあるように朝鮮半島の隅々に人を送り内鮮人(日本人・朝鮮人)官吏が調査集計を行ったものです。
皇道統治(天皇の行う政治)とあるように、併合は天皇陛下の名において朝鮮の民は日本人と同等に扱われなければならない」とされていましたので、その御心みこころのままに統治をおこない、内地人口増加率に引けを取らない所まで来たとほこっているのです。

昭和10年(1935年)国勢調査記念スタンプ・京城(現ソウル)

point太平洋戦争後の教育を受けて、朝鮮より戻った日本人から直接話を聞く機会がなかった大多数の人達はここのトリックに引っ掛かっていることと思います。
「朝鮮半島で総督府や駐屯ちゅうとんしていた日本兵は、多くの一般朝鮮人をあやめた、天皇の名において非道を尽くしていた
そういう歴史認識になるように不自然なまでに資料に基づいた議論を避け、実務にあたっていた京城の総督府元官吏及び家族の声を拾わなかったのが国会議員の一部(とりわけ野党)や日本の学者、メディアになります。
日本側の資料に記された事実はどれをとっても併合により朝鮮半島の人口は劇的に増え、国勢調査までおこなって確認していたということしかありません。
さらに昭和に入ると朝鮮半島の内鮮人は協力して日本の戦争を支え続けました。
しかし敗戦後の天皇に戦争責任を負わせたい、日本軍は非道の組織だったから軍はいらないという人達にとっては歴史的事実はどうでもよかったのでしょう、引き揚げ日本人の集まりにも顔を出すことなく、その人達の抗議の声にも耳を貸すことなく歴史を改ざんしました。

この人口部分で大事なものはもう一つあります。過密だった南鮮の一部(釜山等)の人口が減っていると書いてあることです。

これは過密都市から満州への移住や南に遅れて開発が始まった北鮮域への移住を促進する政策を朝鮮総督府が出していたからです。
朝鮮人の中では貧しく低い身分に生まれた人が新天地(自分の田畑、新しい仕事)を求めて旅立つ動機づけになり、日本にとっては創氏改名そうしかいめい(日本名への改称)と合わさって朝鮮人を日本人として移住先の発展に寄与させられるという物でした。

point北鮮域(平壌・開城・鎮南浦等)の開発は大規模にして南鮮域とは違い重工業中心でした。
そして鴨緑江の水力発電所建設による豊富な電力を背景にした工場の中には軍需ぐんじゅ工場(軍の装備や兵器の工場)も多数あり、その中にはのちのち触れることになる終戦間近の京城に運び込まれていた化学兵器の工場もあったそうです。
移住軍需工場この二つは戦後の朝鮮人の境遇、朝鮮半島と日本の関係にも大いに影響を与えるものとなりました。

序章の最後は朝鮮半島の内地人(日本人)の人口について語ります。

内地人の増加

しかるにの朝鮮において文化、産業各般にわたる建設戦の遂行すいこうに、真に皇道日本の先駆者として兄となり指導者となるべき内地人の総数は、昭和十五年末現在で六十八萬九千八百、併合三十年にしてなお総人口の三%にも足らぬ寥々りょうりょう(数が少ない)たる有様である。

せせこましく(ゆとりのない)、すで飽和點ほうわてん(点)以上にも達した内地の人口を思いあわせる時、その出でて事をなすの雄心ゆうしん(こころざし・野心)足らざる、躍進日本の名にてらしてただ不甲斐なしというほかはない。
そしての内地人分布もまた温暖な南鮮地方ではなくして、比較的気候その他に恵まれない北鮮に急激な増勢ぞうせい辿たどりつつある現象は、地下資源の旺盛な開発、重工業鬱然たるうつぜん(生い茂る草木のように)興起こうき(いきおいよく発展)と相俟あいまってすこぶる注目すべきものがある。

朝鮮は漠然ばくぜんと寒い所と思われているが、満州より暖かいことは殊更ことさらに言うまでもあるまい。
極北の中江鎮ちゅうこうちん(鴨緑江おうりょくこう上流)では零下四十何度という様な水銀柱すいぎんちゅう(温度計)の降下を示したこともあったが、これなどは非常な異例であって、南鮮地方は内地の中部乃至ないし近畿地方、北鮮でも北関東から東北程度の気候だと思えば大差はない。
決して苦になる様な寒さではないのである。

三十年間、朝鮮はもりもり成長した。
しかし朝鮮はまだまだ成長しなければならないし、またそれだけの伸び得る力を十分に持っている。その成長のために、朝鮮は、あらゆる分野にわたって、先導者たり指導者となる内地人を切實せつじつに待望する。

皇道日本の大抱擁だいほうよう、内鮮一元の大やまと民族本来の還元は着々として完成をとげつつある。
内鮮はすで一體いったいであり一心いっしんである。の秋において、なお内と鮮とをわかって内地人を待望する所以ゆえん(わけ・理由)のものは、すなわち此の醇良じゅんりょう(素直すなおで人の良い)なる日本精神の浸透しんとうによって、内鮮一體のよりよき完成を期し、もっ大東亜共栄圏だいとうあきょうえいけん建設の全きまった根幹こんかん(完全な中心)たらしめんとするものにほかならぬ。

朝鮮半島の定住日本人の少なさは、朝鮮半島の近代化と発展をになう総督府が始終悩まされていた問題でした。

男女の比率は大体同じですので男性は35万人程度、そこから未就学児童、小学生(昭和14年時で男子約4万8千人)等未成年者、高齢者を除けば20万人台になってしまうわけです。
その人数で朝鮮半島の近代化をしつつ農業・商業・工業指導を行っていたわけですから総督府としてはもっと人手が欲しかったのです。
環境を本土と比較紹介しているのも、先入観から過酷な生活環境が待っているかのように話す本土側の日本人に実態を知らしめるためでした。

pointなかなか増えない日本人。それどころか派遣されていた官吏も上級職になればなるほど、任期が終わると逃げる様に日本へ帰っていったそうです。
そのため、定住し朝鮮人社会との付き合い方を理解した人達は、生活環境が整った南鮮の工場や店をあとから内地(日本本土)からきた人達に譲り、自身は発展途上の北鮮側へ乗り込む例が多くなりました。
また、南鮮域の朝鮮人の商人、工場経営者にも積極的に北鮮域への進出を促しました。
このことが、短期間での目覚ましい北鮮の成長へとつながったのですが、昭和20年8月ソビエト軍の軍事侵攻によって悲劇が拡大することともなりました。