日本人と朝鮮人(3)

前進する朝鮮(3)

二.新しき朝鮮の使命

ここから本格的に日本人と朝鮮人の血縁関係を具体的に説明しつつ、大和民族(日本民族の別称)への朝鮮人の融合が大東亜戦争の成否にも関わることと説きだします。
当然ですが、朝鮮総督府は朝鮮人の日本人化の先にあるもの、すなわち「新韓国の誕生」の予定を知っていて書いています。それ故に情報課がこのようなデリケートな問題にまで踏み込んでいるのです。

選ばれたる指導者

大業たいぎょうの二大主柱

大東亜戦争は偉大なる建設の戦いである。
それはただ資源的な建設戦であるばかりでなく、より根本的に、の大東亜の天地に建国三千年の大理想を宣揚せんよう(世に宣言)する皇道こうどう日本拡充の精神的大建設戦である。そして此の八紘一宇はっこういちう(世界を一つの家族とみなす標語)の大理想、日本肇国ちょうこく(新しい国を作る)の大精神に基づく大東亜共栄の皇道新秩序の建設はいま壮烈なる血の犠牲において戦い取られつつある。

此の時に於て朝鮮に負荷せられる使命は重い。朝鮮はいまこそ二千四百萬の人的、物的な総力を擬集ぎょうしゅう(ひとつに集める)し、全能力、全機能をあげて銃後の御奉公に必死の赤誠せきせい(まごごろ)を捧げねばならぬ。
貯蓄に、生産拡充に、労務の供給に、武器なき戦士として支那事變しなじへん(変)以来発揮し来った潮のごとき愛国の熱誠を層一層そういっそう(なおいっそう)昂揚こうようし、断乎だんこ銃後の戦場を護り抜かねばならないのだ。

しかも皇道日本の精神的な大建設戦において朝鮮の負荷する意義はより更に重大である。日本は新しき東亜の組織者であり指導者である。
そして半島二千四百萬は、新しきだいやまと民族として内地人と共に一億日本の此の至難なる大業を完遂かんすいする人的な二大主柱である。

それは既に指導せらるる人々ではなくして、歴史的に見て本来一つのものであった所の皇道日本に大還元をとげた、相共に東亜に指導者たる光栄をにな(担)う選ばれたる人々である。

もとより悠遠ゆうえん(はるかな)三千年の皇国精神は、如何いかに本来一元いちげんであったとはいえ、わずかか三十年の施政と同日に論ずべきではない。
真に東亜の指導者たる光栄を分かたんがためにはなお多きまったき(完全な)皇国臣民としての錬成れんせいようを残している。
しかしその故にこそ朝鮮は、皇道精神の體得(体得)に血みどろの苦悶と精進を重ねつつあるのである。

当時は皇紀(神武天皇即位を元年とする日本独自の歴)を主に使用しているので昭和17年は西暦1942年・皇紀2602年になります。建国3000年というのはこの皇紀の解釈で言っています。
point元は一つの民族だったと言いながら、「内地人(日本人)と共に~」と「二大主柱」という言い方をしているのは元より朝鮮を完全に日本へと組み込むつもりがないからです。
昭和14年の時点で新韓国建国の話が伝達され、朝鮮に於ては日本に親しい朝鮮人有力者に水面下根回し作業を始めていた朝鮮総督府は、日本と韓国として大東亜共栄圏の建設にあたることを知っていたからです。
ですから血を分けた兄弟が共に二本の柱として大東亜の指導者になるのだ、そのためにはわずか30年の併合による近代化ではまだまだ兄である日本人と同レベルにはなったとは言えないので血みどろの苦闘(朝鮮志願兵・挺身労働など)精進しょうじん(老若男女問わず日本語・日本人的道徳観の習得)にはげんでいると言っているのです。

このことが分かると内鮮一体というスローガンを掲げ創氏改名を行いながら、何故日本は朝鮮人と日本人の戸籍を統合しなかったのかも自ずから理解できると思います。簡単な話、再び韓国になり韓国人になるので日本人の戸籍に入れなかったということです。
大家族(アジア)の兄が日本人、次男韓国人として異なる国をもつ兄弟が力を合わせ、指導者として大東亜共栄圏をまとめ上げようとしていたのです。
創氏改名導入後も普通に朝鮮名を名乗っている人がいた、日本は改名を強制していなかったという話もこれで理解しやすくなったと思います。名前に誇りを持っている人はそのまま韓名でいてくれた方が韓国皇帝誕生の際、臣民がみんな日本名より世界に対して恰好がつき、日本にとってその方が都合がよかったということです。


とげよ大融合

したがって世界史的な大創造である所の大東亜征戦下にける朝鮮の性格は、如何いかにしてより早く、より完全に、朝鮮が本来の皇道日本に大融合大還元をとげ、醇乎じゅんこたる(純粋じゅんすいである)大やまと民族として真に東亜に指導者たり得べき資質を獲得するかにある。
朝鮮人の努力此處ここにあり、内地人の努力もまた此處にある。

かく数においても二千四百萬、一億の四分の一の人口が本當ほんとうに日本人になりきるかどうか、またこれをなりきらせることが出来るかどうかということはじつに大きい問題である。
われわれが共にこの問題を解決し得るか否かは、他の東亜諸民族に對する抱擁力、またその指導の国民的能力をもぼくす(うらなう)べき大いなる試金石であるということが出来る。

半島人は絶對ぜったいに日本人になりきらねばならないし、内地人はこれを温かく同融どうゆうしなければならない。それは一日遅れれば一日だけどちらにとっても不幸なのである。
朝鮮をして、わが皇道統治の活見本いきみほんたらめ典型たらしめる。そして大東亜にける皇道精神の宣揚せんようは、この朝鮮に於ける成果を基點きてんとして展開されるのである。

かくて兵站基地へいたんきち朝鮮は単に軍需的、資源動員的な前進基地であるばかりでなく、より精神的な、大陸、更に大東亜に對する皇道宣揚の前進基地であり前進據點きょてん(拠点)である。
大陸、ひいて大東亜に對する皇道精神の宣揚は朝鮮を基點とし、朝鮮を闕門けつもん(宮殿の門)として大らかな前進を見るのである。

二千四百萬の半島の民衆を本當に一億日本人にとけこませることが出来るかどうか、大東亜共栄圏の建設はその精神的な成否においの問題を解決せずしては考え得られない。

皆さんが習った、あるいは習うであろう学校の近代史ではこの部分が完全に消された、朝鮮併合が日本の圧政であって多くの朝鮮人が差別・搾取されたという戦後韓国や政治運動にのめり込んだ日本の学者が作った嘘に代わっているものがほとんどでしょう。
しかし、この文章にあるものが朝鮮半島に終戦までいた日本人の紛れもない歴史認識になります。そしてこの部分こそが、教科書にも新聞にもテレビにも、朝鮮引き揚げ日本人の生の声が取り上げられたことがない理由でもあります。
話されたら嘘がばれるわけですから、韓国の歴史認識自分達の政治目的に利用したい日本のメディアや学者から遠ざけられたのです。

正しい日本の歴史では、朝鮮民族を日本民族に迎え入れる作業が行われていて、日本人と共に大東亜共栄圏の指導者になってもらおうとしていた。そのために日本語教育の徹底、道徳を含んだ価値観の共有(ただし日本側への一方通行)が終戦まで行われ、朝鮮半島で生活していた日本人児童もこの方針に沿って教育されていたというものになります。

いき見本・・・要は朝鮮をテストモデルとしてノウハウを積み上げ、その後アジアの異なる文化の民族に日本的近代化を授けていくということです。そしてその前に、西欧列強からの独立運動を始めているアジアの活動家達に来鮮してもらい、現実の朝鮮を自分たちの眼で見てもらおうとしていたのです。
そうすることによって日本の植民地政策西洋の物とは別物であることを確認してもらい、日本に有利な契約(独立後の資源開発の優先権・港湾使用権・鉄道敷設使用権等)を取り付けながら、アジア全域に日本を中心とした国家連合を作ろうとしていたのです。

point朝鮮半島は大東亜戦争(太平洋戦争)に負けていなければ、近い将来独立国韓国(昭和14年の計画)になっていたというのはこのためでした。
そして大敗北だったため計画は一部の人間を除いて知られることもなく闇に消えました。

ここで「前進する朝鮮」は日本政府から許可を受けていない限り触れることが出来ない最大の問題へと踏み込みます。当然、朝鮮総督府総監は日本軍幹部の一人ですから、このことについて軍の上層部も委細承知だったということです。

血液の混融こんゆう

朝鮮をの様に理解し、此の方向にそってもりたてて行くことは我が国の共栄圏建設にける前提的な課題である。
此の場合血液的な混交こんこうもまた大いにあり得ねばならない。
我が国に於ける體質たいしつ人類学的な研究によって見ても、中部朝鮮の半島人は近畿地方の内地人と諸般のてんで極めて酷似しており、その差よりも内地人の地方差の方がはるかに大であると発表されている。

歴史に現れた所に見るも、第五十二代嵯峨さが天皇の御宇ぎょう(御治世ごじせい)に編纂へんさんされた、新撰姓氏録しんせんしょうじろく所載のうじ数千百八十二の中、帰化者(大陸・半島から日本に移り住んだ人)氏数が約三分の一の三百二十六を占めている事實じじつちょうし(らし)、本来的に一つであるばかりでなく、その後においても永い間にわたって血液の混融がなされていたことを知り得るのであって、祖先は一つの血につながった内鮮は、いまこそ永い流別の疎隔そかく(へだたり)を去り、相入り相混じて大やまと民族的な一億一心の大発展を期さねばならぬのである。

これをもっ日本人の血の純潔を失うもの、あるいは日本精神の素質的低下を来すものとするごと反對はんたいは、過去の日本、北海道と三府四十三県にすぎなかった明治期の日本しか知らぬ偏狭固陋へんきょうころう(古いものに固執する器の小さい)島国根性といわれても仕方がない。

新しき日本はすではるかに雄大である。
新しき日本はその新しきものをことごとく摂取し、抱擁ほうようし、これをして全き日本へ統合同化せしめねばならぬ。
何時までも日本を北海道と三府四十三県に限り、これ以外に日本はないと考えて他を否定し排撃する如きは、大東亜に指導者たるべき大国民の態度ではない。今日なお各種の記録が内地と外地とを全く区別して記載せられる如きは、むしろあわれむべき病習であるといわねばならぬ。

日本精神はその様に繊弱せんじゃくなものではない。
その純粹じゅんすいはあくまで高保持されねばならぬが、それはぞうしてあおぐべきもの(しまいこんでながめる)ではなく、一層大きく、たくましく、豊かに、大東亜十億の共栄民族のすみずみまで十分に浸透しんとうせしめねばならないものである。

血がとっくに混じってる、近畿地方の日本人は他の地域の日本人よりも朝鮮人に近いと学術的に発表されていると言い、さらに新撰姓氏録しんせんしょうじろくを用いてまで血縁を説いています。
近畿地方ですので、東京遷都せんとまで日本の都であった京都を含むわけです。出先機関にすぎない朝鮮総督府の独断で踏み込めるはずもなく、このことは最初から日本政府方針だったということです。

朝鮮人を日本人と同じ大やまと民族として受け入れなければならないと説き、それを拒むものを島国根性と批判しています。
それだけ当時の日本は朝鮮を日本のパートナーにすることに熱心だったということです。
大事なのはそれを拒んでいたのは誰なのか、朝鮮人を仲間として受け入れることに異を唱えていたのは誰なのかになるのですが、何となく「前進する朝鮮」の書かれ方で察しがつくと思いますが本土の日本人でした。

point右傾化しているから侵略戦争を美化韓国の歴史認識を受け入れない、他民族に排他的になっていると昨今メディアや学者が訳知り顔でいっていますが、終戦までの朝鮮併合は全く実態が違っていたのです。
京城(現ソウル)に居た日本の新聞社は当然このような総督府発表を受け、その方向で記事を書き、朝鮮人の日本人化を賛美、推奨していました。
さらに京城帝国大学には各分野の大学教授が日本の大学から送り込まれ、この方針にそって内鮮人学生をいは社会人を指導しどう啓蒙けいもうしていたのです。
資料をキチンと読み、引き揚げ日本人の話しと合わせれば上記の事は常識的な事でしかないことが分かります。
日本人化は他民族にとって迷惑だったでしょうが、当時の日本とすれば悪気はなく同じ扱いですよ、アジア人みな兄弟じゃないですかといっていたのです。

そして戦争に負け、空気の変化を察知すると政治家や新聞社、学者は口をつぐみ手のひらを返し島国に閉じこもりました。朝鮮戦争が起ころうなどとは夢にも思わず・・・


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