日本人と朝鮮人(4)

大やまと民族への前進

大やまと民族への前進

すでに朝鮮は軌道きどうに乗っている。支那事變しなじへん以来まん五ヶ年にわた赤誠せきせい(まっすぐな心)の発露はつろはこれをしょうしてあまりありというべきだ。
朝鮮の人も内地式ないちしきの姓をつけて良いという創氏そうし制度が、皇紀こうき二千六百年(西暦では1940年)の紀元節きげんせつを期して発表せられるや、たちまちにして全鮮総戸数の八割がその手続きをすませたごとき、その皇国臣民化の熱意を示すものでなくて何であろう。

の様にして内鮮は一丸いちがんとなり、大東亜の日本的新秩序構想は、朝鮮を地理的には北へん防衛(一部はソビエト領と接していたため)の咽喉いんこう(のど・重要な出入り口)とし、また大陸への兵站へいたん基地、前進據點きょてん(拠点)たらしめ、更に精神的には皇道文化推布の根源として開展かいてん(大きく広がる)する。
往昔おうせき(いにしえ)大陸の文化は朝鮮を経て我が国に流入したのであるが、千数百年後の今日、わが皇道文化は逆に朝鮮を経て大陸に放流するのである。

創氏改名に対して「つけて良い」と書いてあるように、実際のところ強制したものではありませんでした。総督府はここで8割もの朝鮮人が応えた成果をいつわる理由がありませんので正直に書いています。
強制をしたかのように戦後たくみに誤認させたのは、朝鮮からの引き揚げ日本人の集まりにも姿を見せることのなかった日本の歴史学者やメディア関係者と言われています。また、そういう人間から聞きかじった浅い知識と日本はアジアに迷惑をかけた(=残虐行為、戦争をしていた)という思い込みをもって出鱈目をテレビやラジオで流布した文化人でもありました。

日本側は想像以上の申し込みにたしかな手ごたえと満足を感じていたに過ぎませんでした。
熱意を感じているからこそ、はるか昔、中国の進んだ文化や政治システムは朝鮮を通じて日本にもたらされた、今度は日本と朝鮮が協力してアジア大陸全体に日本式近代化のノウハウを伝授するのだと言っているのです。

point近年、韓国の反日に反発する自称保守・右翼の人達の中には、ことさら朝鮮の日本に対する影響が皆無だったかのような発言をする人がいます。
しかし、ご覧になられたように、戦中の軍国主義下の日本でもその文化的影響を普通に認めていました。
戦後、事実を誤魔化し政治利用した学者やメディアのせいでおかしなことになっていますが、日本政府・軍部は朝鮮の人を見下しさげすんでなどいませんでした。
むしろ、むき出しの朝鮮人への差別・蔑視べっしは明治・大正歴代天皇の真意やそれを受けての政府方針を知ろうとしなかった一般の日本人(自分の周りしか頭になかった本土の日本人)が多かったといわれています。

「前進する朝鮮」は、ここから当時の朝鮮人がいかに愛国(日本)精神が高いかを紹介しだします。当時はそれが美徳であり推奨すいしょうされていたので、朝鮮総督府情報課は積極的に取り上げていることを念頭に読んでいって下さい。
近年言われている「事大主義じだいしゅぎ(強者に迎合げいごうして保身をはかる傾向)だから韓国(又は朝鮮人)は反日になったという説では説明出来ない真摯しんしな朝鮮人の姿を感じていただけるはずです。
それこそが最も大事なことでして、日本の学者や既存のメディア、弁護士等がいかに国民をあざむいて来たのかを知る最初の入り口になり、反日国家韓国誕生のゼロ地点が存在していることのあかしともなるのです。

愛国あいこく李元夏おう

歴史の上に新しき傳説(伝説)を築くのである。
昭和十四年一月二十六日、忠北(忠清北道ちゅうせいほくどう)清州郊外四州面司倉里に住む七十四歳の老翁ろうおう李元夏氏は、その病重く自からあたわずと知るや、夜半ひそかに病床びょうしょうを抜け出し、自宅から一町以上も離れた国旗掲揚塔こっきけいようとうの前にいたり、宮城を遥拝ようはいしつつ合掌して大往生をとげた。
當時とうじの記録によってその最期さいごを述べると

おきなはその前年例年の国民精神作興さっこう週間に際して、七十三歳の老軀ろうくもいとわず、率先部落民をひきいて週間行事の實踐じっせんに精出したのであったが、晩秋ばんしゅうの寒気は一人深く疲労も手傳てつだって到頭とうとう風邪をひいてしまい「週間中途で休むのは御国や部落の人達に申譯もうしわけがない」と残念がりながら病床びょうしょういたのであった。

その後大分だいぶ快方に向かい翁もの分ならまだまだ御奉公ごほうこうが出来ると言って、毎朝欠かしたことのなかった国旗掲揚塔下の宮城きゅうじょう遥拝ようはいも行う様になったが、何せ零下十度内外の寒さのこととて一月七日にはぶり返して再び病床の身となった。
妻女さいじょ朴氏の手厚い看護もおよばず一月二十三日、四日頃にはいよいよ重り、二十四日になると、翁も再起不能とさとってのことだろう、夫人をかえりみて「わし一寸ちょっと用事があって行って来る所があるが行っても心配するなよ」と言われたとのことであった。

越えて二十六日午前一時頃、おきなは夫人に「お前は看護のために疲れきっている。少しでもいいからねむって休めよ。儂も今夜は気分が良いから睡れる」と言っていたわるのであった。
夫人が一寸ちょっと假睡うたたねして目をさまして見ると、翁の姿が見えない。驚いて戸外に出て見ると閉めたはずの門が開いている。翁が夜間部落を廻るときに用いた手提げランプも見當みあたらぬ。
きっと外に出たに違いないとそれから大騒ぎとなり、近所の應援おうえんを得て探し廻って国旗掲揚塔こっきけいようとうの下まで来ると地面に大きい黒いものが見える。

おそる恐る近づいて見るとまさしく李元夏翁であった。
翁はキチンとすわって両手を地につけ、その上にぬかづき平伏して(ひたいを地面につけておがんだ状態)こときれている。その横には愛用の手提げランプが置かれてある。
これが忠誠報国ちゅうせいほうこく至情しじょうって(国にくすまごころをつらぬいて)、宮城きゅうじょうはいしつつ国旗の下に大往生だいおうじょうをとげた李元夏翁の崇高すうこうきわまりない最期の姿であった。

の大往生は「国旗の下にわれ死なん」の標題をもって新聞に雑誌に掲載せられ、全鮮に深い感激をき起し、往生の地には立派な記念碑がたてられ、その除幕式には南総督も臨場りんじょうの栄にかがやいたのであった。
翁はつとに(はやくから)敬神けいしんの念に厚く、毎朝神棚かみだなに禮拝(礼拝)し、病床にあっても合掌黙祷もくとうをささげて一日も欠かしたことがなかったといわれる。

の内に固き敬神崇祖けいしんすうそ(神をうやまい、先祖をあがめる)の念、ほかに部落民にたいする尊皇愛国心そんのうあいこくしん皷吹こすい(はげまし)となり、昭和十二年支那事變しなじへん勃発ぼっぱつするや、時局認識に銃後奉公じゅうごほうこう(戦場ではない場所での働き)の實行じっこうに、七十二歳の老躯ろうくひさげて部落民を督励とくれい(はげまし監督すること)し、他方真に赤誠せきせいこもる国防献金と国旗掲揚塔建設の費を得べく、部落民とはかつて砂防工事を請け負い、自からも擔架ちげを背負って工事に従った。

おきなの得た労銀はわずかに十二せんであったというが、これこそはじつとうとい十二銭である。
翁が最期の力をふりしぼって臨終りんじゅうの場所を此の下に選んだ心情を汲むとき切々せつせつとして胸を打つものがあるではないか。

李元夏氏は死亡時が74歳、昭和14年(1939年)ですから、日本の元号では生まれは明治(元年1868年)どころか幕末(江戸時代)の方になります。
幼少期は近代的学校もなく日本語取得など叶わなかった時代の朝鮮半島の老人が、日本側の朝鮮近代化(内鮮一体化)の呼びかけに積極的に応えて下さったのです。
その存在を朝鮮総督府は利用していたとはいえ、呼び捨てにしておらずおきな(老人の敬称)と書き、妻女さいじょ(妻)朴氏と書いて敬意を表しています。
擔架ちげを背負う姿とは下の写真のようなものです。翁の奮闘は内鮮一体を掲げ国に尽くす姿勢を求めていた当時の総督府にとって内鮮人の手本として賞賛されるものだったのです。


そしてその死が新聞、雑誌によって朝鮮半島で美談として、皇国民のあるべき姿、手本として取り上げられ、世論を喚起かんきし記念碑までたてられ、南総監(第8代)出席となったのです。

point日本の新聞を中心としたマスメディアは朝鮮半島に支局を置いたり新聞・雑誌を発行していただけでなく、積極的に朝鮮人の皇国民化に関与していたというわけです。
彼らは朝鮮半島の集落の出来事も美談に仕立てあげ、内鮮一体に一役買っていたのです。
それにも関わらず慰安婦の強制連行問題が出ても、まるで善意の第三者のように振る舞い、あたかも併合時代の朝鮮半島で日本人による非道が行われたかのような無責任な報道を続けたのです。

国旗掲揚塔こっきけいようとう建設の費用をなぜ地域の人が集めているのか分かりにくいかと思いますが、こちらで紹介した学校組合の寄付と同じ性質のものになります。
普通のポールに国旗を掲げるよりはるかに見栄えがする掲揚塔は政府が予算を組んで用意するものではありませんでした。
地域社会が寄付をつのって作ることに、国家(=天皇)への忠誠を高めさせるという効果があり、さらに他の地域との愛国心の強さを競わせる(持てた所はそれを誇り、未だ持てない所を悔しがらせ発奮はっぷんさせる)意味でも重要な役割を持っていました。


志願兵李仁鍚

また昭和十三年朝鮮に始めて志願兵制度が實施じっしせられ、半島人にも軍国の干城かんじょうたるのみちが開かれるや、勇躍ゆうやく志願して見事第一回の志願兵となった同じく忠北沃川郡出身の李仁錫一等兵は、翌年五月念願かなって大陸山西の前線に出動、木越部隊に属して晋南の残敵ざんてき掃蕩そうとうに勇戦した。

六月二十二日部隊は「敵は増し、緑は繁り・・・」の籠城の詩で有名な聞喜城ぶんきじょう東方、峨々ががたる中條山脈の峻嶮しゅんけんにある湾山村附近の高地に蟠踞ばんきょ(居座いすわる)する敵を撃退してこれを占領したが、夕刻に至って猛烈な敵の逆襲を受け、壮絶なる機銃と手榴弾しゅりゅうだんの接近戦は翌朝まで間断なく続けられて、その高地は敵の手榴弾で燃えて火の海を化するという激戦を展開した。

そして李仁錫一等兵も勇戦これ力めたが敵手榴弾の爆傷を左大腿部に受け出血多量のためついに起てず、戦友のさしのべる手を握りながら陛下の萬歳を奉唱ほうしょうして半島の志願兵として初の戦死をとげたのである。
即日上等兵に進級、次いで事變じへん第十七論功行賞には特に功七級金鵄勲章きんしくんしょうを授けられてその殊功しゅこう(特別な功績)をせられた(ほめたたえられた)。

戦死の公報を受けた李仁錫上等兵の出身地沃川では、何しろ半島最初の名誉ではあり、郡守ぐんしゅ、警察署長以下地方の有志達打揃うちそろい夜分ながら同上等兵の遺族を訪れた。
門前まで来て、前例もないことではあるし、あまり取乱しでもされてはと大分躊躇ちゅうちょしたのであるが、意を決して門を叩き、一同を代表して郡守がその旨を告げると、父李千典氏は少しも動ずる色なく「出征しゅっせいの時から今日あるを覚悟しておりました。皆様にこうして夜分にまで心配していただいてはかえって痛み入ります」と謝辞しゃじを述べ、夫人柳氏も三つになる遺児を抱いて「立派に覚悟を致しております」と慇懃いんぎん(ていねい)にこたえたのであった。

の李仁錫上等兵が出征の後、母親徐氏は千人針せんにんばりというものを作って我が子に送ろうと、田舎ではとても千人の針は求められないので、はるばる炎天下四里よんり(約16キロ)の山坂を越えて大田だいでんの町まで出、街路に立って心づくしの一針を求めた。

ところが出来上がった千人針を内地人に見せると、これではあまり短くて帯にも何にもならないという。それではと翌日また改めて大田の町に出で、今度は婦女の多い所をと紡績ぼうせき工場を訪ねて女工さんの針を得たが、帰って見ると、これでは多すぎて針数が三千人にも餘るといわれた。
多い分には差支えないではないかという者もあったが、それでは折角せっかく送るのに申譯もうしわけないからと、此の母は老いの身もいとわず、三度みたび四里の山坂を越えてただ一つの千人針をつくるために大田の町に出たのである。
しかも、此の涙の千人針が出来上って、やれ送ろうと思った時には、李仁錫戦死の報は痛ましくも此の母の胸を打ったのである。

本来なら日本の歴史教育で教えるべきはずの、朝鮮志願兵制度の下生まれた最初の戦死者である朝鮮人日本兵の李仁錫(イ・インソク)上等兵の話になります。
この様に本来日本と朝鮮は共に日本の戦争を戦いました。それ故に多くの朝鮮人の若者の命を失わせる悲劇を生み出していったのです。

しかし戦争終了までの自分達の言動と向き合わず、ただ政府(軍部)や天皇に責任を押し付けたメディアや学者が戦後作られた韓国の歴史を好んで使うことにより、真の歴史を知る朝鮮より引き揚げた日本人が常々申し訳なかったと口にしていたことが消されるというおかしなことになっているのです。

point戦死の報がご家族に届いた方達だけではありません。東南アジア方面への船舶での輸送中にアメリカ軍の攻撃で船ごと沈んだり、終戦間際の突然のソビエト軍の朝鮮侵攻を食い止めようと奮戦、行方不明・戦死した兵士達も多くいました。
せめて日本だけでも正しい歴史教育を行っていれば、当時の状況調査を合同で行い記録にとどめようと韓国に働きかけたり、合同慰霊式典の開催をうながしたりできたでしょう。しかし残念ながら戦後の日本も韓国同様に歴史の操作が行われてしまい、最後にはやってもいない慰安婦強制連行に談話まで出すという愚かな行為におよび、忘却ぼうきゃくされつつある朝鮮人日本兵の名誉まで失わせました。
千人針とは武運長久ぶうんちょうきゅう千人針ともいわれたお守りです。銃後(旅立つ兵士の留守を守る)の女性の手によって一針一針われ結び目を作ったものです。
日本人に習い、多くの朝鮮人の母親や姉妹等によって駅や人通りの多い場所で行われ出征する我が子へ兄弟へと渡されました。
朝鮮半島で生活していた日本人はその光景を見たり、あるいは求めに応じて一針入れていたのです。それ故に、負け戦となっただけでなく、南北共に反日勢力下に落ちたため積極的に日本人になろうとしていた人達に大変な思いをさせてしまった、申し訳ないことをしたと言っていたのです。

千人針を行う様子

こちらの写真は「前進する朝鮮」に載っているのですから、白い装束の人は朝鮮婦人の可能性が高いと思われます。
当時は服装も日本の影響で洋装、和装の女性が増えていました。


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