日本人と朝鮮人(6)

三.皇道統治こうどうとうちの大典型

前進する朝鮮」第3章は、朝鮮半島において天皇の存在は、その言葉はどのように解釈されて併合政策にかされていたのかについて触れます。
戦後、朝鮮から引き揚げた日本人を調査することなく、勝手な解釈を唱える歴史学者が後をたたず当人達は憤慨ふんがいしていましたが、ここに書かれているものが朝鮮半島で生活していた日本人の正しい歴史認識となります。

併合へいごうの大精神

一視同仁いっしどうじん大御心おおみこころ

したがって併合の御精神ごせいしん詔書しょうしょ(天皇の意思を示す公文書)の御言葉おことばに明かなごとく、韓国が常に禍亂からん(混乱)の淵源えんげん(みなもと・発生源)たるにかえりみ「東洋の平和を永遠に維持し帝国の安全を将来に保障するの必要」と、「公共の安全を維持し民衆の福利を増進せんがため」にあったのであるが、さらにその統治にいては

「民衆は直接ちん(天皇の自称)が綏撫すいぶ(おだやかに治めること)の下に立ちて康福こうふくを増進すべく・・・・東洋の平和はこれりて愈々いよいよ其の基礎を鞏固きょうこ(強固)にすべきは朕が信じて疑わざる所なり」

おおせられ、また大正八年八月朝鮮総督府ちょうせんそうとくふ官制改正にしょうして

ちんつと(以前から)に朝鮮の康寧こうねい(平穏無事へいおんぶじ)をもっねん(おもい)となし其の民衆を愛撫すること一視同仁朕が臣民として秋毫しゅうごう(わずか)の差異あることなく各其の所を其の生に聊じひとしく休明きゅうめいさわ(沢)をけしむることを期せり」
と仰せられた様に大御心はただ一視同仁、齊しく皇化によくせしめられるにあった。

したがって歴代総督統治の眼目もただの一點に置かれ、御趣旨ごしゅし奉體ほうたい(天皇の言葉を心にとどめ政務にあたる)して一視同仁の大御心の顯現けんげん(現実の形にあらわれる)に努力せられたのである。
今日顧こんにちかえりみて武断政治ぶだんせいじといい、文化政治というも、要はただ此の一つのものにい、また此の一つのものを目標とした、それぞれの時代に即應そくおう(即応)する内鮮一體化の施政の道筋にほかならない

明治天皇より明治43年の併合時に詔書しょうしょが出たということはご存知の方が多いとは思います。問題は戦後、併合時代を考える際に、この詔書が出された明治時代の天皇は現人神あらひとがみであり、輝かしい近代日本を導かれた(明治維新・大日本帝国憲法・日清・日露戦争勝利)特別な存在だったということが軽んじられていることです。
詔書に総理大臣も陸軍大臣も海軍大臣も外務大臣も署名をしたということは、各省いかなる機関も大御心おおみこころ(天皇のお考え、御意思)に従いそれを実現させますと神に誓ったことなのです。

大正、昭和と時代が下がるに連れて各天皇の権威が下がり、軍や政府の都合のいいように利用されていったことは事実ですが明治天皇は特別でした。
だからこそ東京市民の要望という形でその御遺徳ごいとくは「明治神宮」として残され今日も多くの参拝客で賑わっているのです。

その神の特別の御意思が併合の基本姿勢として代々の総監から末端の官吏(役人)まで徹底されていましたので、朝鮮の人達を日本人と同等に扱うための準備が出来次第、随時ずいじ待遇が内地と同じ様になっていったのです。
日本側の資料にあるのはインフラ(道路・鉄道・水道・電話等)を整備し、医療を入れ、学校を作り人口は右肩上がりに増えていき、日本名を名乗ることを許可し、国に尽くすこと(志願兵)も許可していったという記録だけです。最初から悪意をもった見方をしない限り朝鮮は日本の近代化をなぞっていただけなのが分かります。

point一視同仁(ひとりとして差別することなく同じ様に扱いなさい)この明治天皇の大御心おおみこころを伊藤博文がくり返し朝鮮の地に入った日本人に伝え、伊藤公暗殺ののち朝鮮総督府もそれを守っただけだったのです。
ですから、「内鮮一体化の施政の道筋に外ならない」と書いているのです。

「朕夙に~」の部分は大正8年ですから、その言葉の主は大正天皇になります。大御心とは一代の天皇だけの言葉というものではなく、神々の御意思というものととらえていただけると分かりやすいと思います。
そして、大正天皇の存在は朝鮮の日本人にとっては非常に大きく重いものでした。これはのちのち詳しく取り上げる「新韓国皇帝擁立と新韓国の誕生計画」に様々な形で影響を与えることとなりました。


内鮮は一心一體いっしんいったい

内鮮一體は言葉としては比較的新しく、宇垣総監うがきそうかんの末年頃からボツボツ用いられ、南総督に入って施政の最大綱領として強調されるにいたった。

この以前には専ら内鮮融和ないせんゆうわという言葉が用いられたのであるが、何と表現されるにせよ、それは既に明らかにした様に祖先的な血の本然ほんぜん(もともとの姿)にもとづく必然的な大復古だいふっこであって、今日では内鮮一體もまた過渡的な言葉にすぎず、朝鮮はいま大東亜共栄圏だいとうあきょうえいけん組成そせいに、大日本民族としての発展的な大還元だいかんげんをとげつつあるのである。

すなわち内鮮の一體は日満にちまんの一體、日華にっかの一體とは全くその意義を異にし、日満の一體は協同であり、日華の一體は提携であるが、内鮮一體は協同とか、提携とかいう程度の生優なまやさしいものではなく、全く一心一體、一つのものになりきってしまわねばならないのである。
内鮮一體は窮極きゅうきょく(究極と同じ)において内鮮の別をなくすにある。内鮮問題の決着點けっちゃくてん、ここにあり、かくしてまた朝鮮の人々も全き日本人として大東亜共栄圏の選ばれたる指導者となり得るのである。

昭和十三年来朝した伊太利(イタリア)経済修好使節だんの團長コンテイ伯は、山青く、民平和に、皇化こうか遍満へんまん(広がり満ちている)しつつある朝鮮の姿を見て「朝鮮に来て日本の真の姿を見た」と嘆じたが、これはそのまま皇道統治の高らかな凱歌がいかであって、幾多朝鮮統治の先駆者達もの言葉に始めて莞爾かんじ(喜び笑う)たる思いがあるであろう。

祖先的な血の~」とあるようにここでも日本人と朝鮮人は血縁関係にあることを強調しています。元々ひとつのものだった日本人と朝鮮人。長い歴史の中で別れたようになっているのをまた元の様に戻す。だから、満州や中華民国とは違う朝鮮は特別と強調しているのです。
そして大復古だいふっこを使っていますが、「王政の復古」と同じ様に天皇の下に有力な民族が共同で事(大東亜共栄圏建設)にあたるということです。
当然ですがこれが興亜こうあ(東洋発展)から拡大させ、大東亜共栄圏の樹立じゅりつを目標に掲げた日本政府の基本方針でした。

近年、得体えたいの知れない学者やジャーナリスト、弁護士が日本側資料や証言を無視し、ナチスが率いたドイツと同じだったかのように国内のみならず世界に対して吹聴ふいちょうしているようですが、まどわされないように気を付けてください。この「前進する朝鮮」以外の、日本が終戦までに残した多数の資料でも当然のように朝鮮とは血縁である、兄弟であると書いています。
それに基づいて、朝鮮半島在住の内鮮人児童は学校教育においても日本人と朝鮮人は元々は同じ民族だったと教育されていました。当然、最高学府京城大学においてでもです。
ナチスがユダヤ人と自分達アーリア人が同じ血縁だと説いたでしょうか、彼らの言動とはまったく違います。
先ずはしっかり自分の眼で資料を確かめるということを行って下さい。

pointでは、日本は素晴らしいことをしたかというとこれも違います。善悪の問題ではなく日本にとってそれが必要だったから行い、終戦までの時点では多くの朝鮮の人達も協力してくれていたそれだけのことです。
終戦から大きく話がおかしくなったのです。そしてわざとそこを日本の歴史学者やマスメディアが触れないため何時まで経っても日韓関係の悪化が食い止められないのです。
要は彼等はあるトリックを用いて韓国人や在日韓国人・朝鮮人を自分達の主義主張の道具・盾代わりに利用しているのです。そのトリックはこのあと皆さんにお伝えしなければと思っています。
それによって、朝鮮から引き揚げた日本人が何に対して朝鮮の人達に申し訳ないことをしたと言っていたのかがハッキリとすると同時に、誰がどんな組織が日本の歴史を歪めたのかが浮き彫りになります。

日の丸に集う

朝鮮は皇道統治の典型である。
一視同仁いっしどうじん大御稜威おおみいつ(天皇の威徳いとく)の下、朝鮮は前後十年にわたる斎藤文化政治から心田しんでん開発、自力更生の宇垣総督時代を経て今日の南総督統治に入り、満州事變まんしゅうじへんから支那事變しなじへんへと引続き作戦接壌せつじょう(戦争をする場所に土地が接している)としてたなん難なる時代を迎えたのであるが、三十年に及ぶ拮据きっきょ経営(忙しいほどの朝鮮の開発・運営)の功はむなししからず、半島の銃後は盤石ばんじゃく重味おもみもってよく長期の艱難かんなん(つらく、苦しいこと)にえ、内鮮一體ないせんいったい愛国の至誠しせいたぎらしつつ歓喜の中に躍進を続けている。

特に昭和十三年夏には張皷峯事件ちょうこほうじけんの突発によって、北鮮の一角は直接砲煙弾雨ほうえんだんうの見舞う所となったが、民心は微動だも示さず、また翌十四年には全鮮にわたって平年作の一千万石減という未曽有みぞう大旱魃だいかんばつに見舞われながら、自らは真っ黒なむぎあわの混食に甘んじて例年並みの米穀を内地に供出し、涙ぐましい努力を以て食糧基地としての面目めんもくを果したのである。

ただひとすぢに日の丸の感激に集うのだ。
一九三六年ベルリンの空高く、君が代の吹奏すいそうに感激の日章旗を掲げたマラソン制覇の孫基禎、南昇龍の両君は半島の出身者である。

當時とうじはそれでもまだ、孫君の胸の日の丸を殊更ことさらにぼかした寫眞しゃしん(写真)をかかげて発行停止を命ぜられた不心得ふこころえな新聞もあったし、祝祭日に家々に掲げられる国旗の数も決して多いとはいえなかった。

それからまだ数年を経たにすぎないが、支那事變の勃発は半島がそんな中途半端な気持ちの中に逃避することを許さなくなったのである。
の戦争は半島の精神に大きな反省を求めたのである。

多くのあやまれる思想や態度が清算された。
そして今日では家々では必ず国旗が備えられた。三歳の童子どうじにも、八十の老人にも日の丸はわれ等の国旗である。
すべての人が此の国旗の感激に生きる。そしてまた此の日の丸の光栄に死ぬ。

寒夜瀕死ひんし病床びょうしょうを抜け出て国旗掲揚塔こっきけいようとうの前にいたり、粛然しゅくぜんと暝日(亡くなった)したのは清州せいしゅうの李元夏翁である。その敬虔けいけんな姿は、三條大橋のたもとに皇居を遥拝ようはい(遠くはなれた場所から拝む)して涙滂沱ぼうだ(なみだがとまらない)たる草莾そうもうの臣高山彦九郎を想わせるものがあるのではないか。

また李仁錫、李亨洙の両上等兵は酷熱こくねつ山西さんせい戦線に陛下の萬歳ばんざいを唱えて志願兵のはなと散り、荒鷲あらわし池麟泰大尉はノモンハン戦線出でて再び還らず、其の他の大陸の戦線に通訳として活躍護国ごこくの鬼と化した半島出身者は枚挙にいとまがない。

これ等はいずれも皇国臣民として日の丸の国の感激に、死を鴻毛こうもうの軽きに比した忠烈ちゅうれつの士(天皇に対する忠義の心で戦う戦士)であり、さらには河北かほく、山西の戦野に赫々かくかく武勲ぶくんてた金錫源中佐は武運めでたく先頃の陸軍第二十回生存者論功行賞ろんこうこうしょう殊勲甲しゅくんこう功三中緩の抜群の恩命おんめいよくし半島出身者中最高の賜賞ししょうに輝いた。

大東亜戦争(太平洋戦争)に敗れると、朝鮮半島は皇道統治(天皇の大御心おおみこころに従い政治をり行う)だったがゆえに、また近い将来独立させようとしていたために引き揚げた日本人の声は消されました。また、朝鮮系日本人として日本に尽くした朝鮮人の声も同様でした。

天皇の名の下に、義務教育を受け、本人の能力次第では大学も用意されていた。官吏(役人)、医師、教師、弁護士、軍人、警察官、日本人と同様の職業選択の自由があったでは戦後世界を朝鮮半島を二分した戦勝国アメリカにもソビエトにも都合が悪かったのです。朝鮮半島の作戦接壌地は中国側だけでなく、ソビエト側にもありました。
敵は悪鬼(日本も戦時中は鬼畜きちく米英べいえいとことさら憎しみをかきたてていました)非道のやからでなくてはならなかったのです。それは反日勢力が政権を握った韓国でも、北朝鮮でも同じでした。

そして、このことは戦後復興の際、日本がどちらの陣営に付こうがタブーとして公に言えないことが生まれるものでした。アメリカ(自由主義)に付こうがソビエト(共産主義)に付こうが、与党であっても野党であっても。

pointそれでも、事情を知る人達が健在の頃(1980年代ギリギリ)ならば慰安婦強制連行などという馬鹿げた話を、さすがの朝日新聞社でもでっちあげるのは無理だったでしょう。
文中に出てくる金錫源中佐(キム・ソグォン)は韓国建国ののち苦難を乗り越え韓国軍の要職に就いたのち政治家・教育者を務めた方です。そして、朝鮮戦争後から水面下ではじまった政治家岸信介を中心とした日本側の働きかけに応えてくださった方達のお一人でもありました。
日本軍軍人だった朝鮮系日本人の中佐[佐官級(上から大佐・中佐・少佐)は徴兵された一般日本兵ごときが軽々しく口をきける存在ではありません]朝鮮人の婦女子を連れ去るのを黙認し、前線の朝鮮人志願兵が日本兵と一緒に黙って慰安所を利用していた
大東亜戦争(太平洋戦争)を戦い、その後に起った朝鮮戦争をも戦い、反日大統領配下の眼が光る中、韓国を救うため日本との連繋を成し
遂げるべく戦った人達を侮辱する話が許されるわけがなかったからです。