終わりと始まり

京城カタストロフィ

韓国の歴史認識が日本と何故これほどまでに違うのか。同じ統治をうけた台湾と比べて異常なまでに反日で国同士の約束すら守らないのか。疑問に思う人は多くても既存のメディアの報道ではいまひとつピント来ない のではないかと思います。
何度終戦の日を迎えてもメディアや学者が詳しく伝えないだけで、日本に併合されていた朝鮮半島で起こったことはものすごく単純な話です。
point終戦後すぐに統治能力を失った総督府の官吏(役人)がアメリカ主導で入れ替わった時に反日勢力に入り込まれ乗っ取られたのです。

反日勢力により1948年韓国が誕生

point併合時代長期間に及ぶ朝鮮半島近代化事業を日本人と行っていた方たちが脇へと追いやられてしまいました。
かわりに明治以来の根っからの反日勢力(日本を自分達より下と見て日本主導の近代化に反発した者や両班ヤンバンという特権階級層の中には自分達の地位、権利が無くなるとして、日本の進めた四民平等政策に反発)が政治権力を握ると、自己の正当性政治経験のない未熟な統治をごまかすため歴史の改ざんを始めました。日本のしたことは全て悪とみなす反日韓国の始まりでした。

それがどの様な物だったのか、朝鮮統治の中枢にして私の祖父母や父達がいた終戦後の京城(現ソウル)について説明していきます。今回はいくつかの証言を紹介、次回から前後の状況説明にはいります。

地図上の赤いが朝鮮総督府(昭和8年・1933年頃)


停戦後の朝鮮の状況について語りたいことは多いが、紙面を節約して、ただ一言付加ふかしたい。それは此程このほど京城けいじょう仁川じんせんで聞く所、総じて日本人の、特に総督府所属官吏等ちょうせんそうとくふかんり醜態しゅうたい(みっともない姿すがた)と今後の日本人側の不安の状態とのみであった。

思うにを非として指摘するのは今後の改善のために極めて大切ではあるが、外国でことに同胞が一致協力を要すること今日よりだいなるはない時に、ほとんど非難のみを事とし合う事は、如何いかに敗戦国民といえども面白くない。恐らく祖母が可愛い孫娘の欠点を事毎ことごとに指摘するのと共通の心理もあるだろう。外国人なら我慢出来るが、同胞どうほう(同じ民族)の非行は我慢出来ないと云う意味もあろう。しかし中には今まで陰で悪い事をしながら、表では威張り散らして居った役人に向かっての反感もあるだろう。

この様な中で只二人だけ賞められた人を聞いた。其一人は京畿道けいきどう警務部けいむぶ長岡氏でこの人は一六日一七日示威運動しいうんどうの際よく部署を守り、権能けんのうなき(法律上権利のない)朝鮮人の接収申し出および脅迫を撃退したと云う。

同様な事は京城電気の社長穂積眞六郎氏についても云われている。総督府が瓦解がかいした後日本人の世話をしたのは此日本人かい位のもので、穂積氏のしっかりして居った為といわれる。

「生みの悩み」停戦と朝鮮より

pointこれは京城の終戦一日後の16日17日一部の朝鮮人が暴徒化した話になります。この筆者は京城入りしたアメリカ軍により騒動終結後、現地日本人から聞いた話として書いているわけですが、読まれてみて総督府が当事者能力を失っていた事がお分かりいただけたと思います。
この二人位とは流石に極端ですが、アメリカ軍の先遣隊が京城に入るまで、日本側が手も足も出ない状態になっていたのは事実です。
日米同盟を結んでいてもアメリカは助けてくれるかどうか分からないという人がいますが、実際には日本第5番目ともいわれた大都市京城(現ソウル)で数日前までの敵に救われた多くの日本人がいたのです。
穂積眞六郎氏のお名前はこの様に他の資料でも確認いただけます。この方が、朝鮮人暴徒から日本人を守るべく奮闘されたお一人にあたります。

アメリカ軍が18日に京城入りするまで市内は無政府状態になっていました。この時の光景を「柳3号」に書かれている方が居られます。

昭和20年8月15日、正午の日本敗北の報道と同時に朝鮮全土、少なくとも京城市街地で朝鮮人(今の韓国人)によって大暴動がおきパニック状態となった。今まで朝鮮人をいじめていた日本人の家へなだれ込み、前述したソ連兵のように、略奪りゃくだつ暴行強盗強姦ごうかん虐殺ぎゃくさつなど、あらゆる卑劣ひれつな行為が連日のように行われた。

そのために一家心中をした日本人の家族がどのくらいいたことか。あの悲惨な姿は12歳だった私の眼に、今もってはっきりと焼き付いている。幸い私の家では、戦時中から朝鮮人と親しく付き合っていたためか、ほかの朝鮮人から守ってくれ、早く日本に帰れと餞別せんべつをくれた人までいた。祖父や父は、日本に引き揚げるとき、その朝鮮人に永く住み慣れた家をやってきたという。

その朝鮮人は、泣きながら祖父たちに「いままで本当によくしてくれてありがとう。このご恩は一生忘れない。この家は思い出として一生大事に使います。」といったそうである。三十数年後、私の上級生だった木村さんが韓国旅行をしたとき、わざわざ元町もとまちの昔の家を尋ねて写真を送ってくれ、昔の写真を見ることができ懐かしさでいっぱいであった。

私たちにとっては悪い印象はないが、あのような朝鮮人の日本人に対する仕打ちは絶対に許すことはできない。今、韓国が日本に対しての賠償請求の言い分はでたらめだ。腹が立つばかりである。

「柳3号」は朝鮮での思い出を平成15年時存命の会員が書いた物です。私の父以外で他の資料との確認上必要な方のお名前以外の個人情報部分は極力消してありますのでご了承ください。

別の方です

八月十五日夕方、近くの工場に風呂をかしに行く様にわれ、六年生二・三人で行ったところ、従業員がざわめいており、どうやら日本は負けた様だからすぐ帰って荷物をまとめる様に云われ、あわてて走って帰り下級生の面倒を見つつその夜半やはん真暗な夜道を何時の間にか歩き何処かの駅に辿たどり着き列車で京城駅に昼過ぎに着きました。

駅の広場では何千人と云う朝鮮人が萬歳バンザイ・萬歳の大歓声で何が何だかさっぱり判らぬ有様で這這ほうほうの体で我が家に辿り着いて見ると人の波で家に入れず、何事かと思いたたずんでいると家が軍需工場だった為、使用人の徴用工ちょうようこうが騒ぎ出し四歳の弟を人質として取り、親父に金を強要している最中でした。

後から親父が「命には代えられんから可成りの額を取られた」と青ざめていたのを思い出します。の後、永楽町のフランス教会近くの親戚の家に逃れ、引揚証明を貰うまで二ヶ月余を過し、十一月の半ば過ぎ龍山りゅうざんから釜山ぷさんに向けて貨車で出発しました。


この方は北鮮での体験になります。

8月10日、ソ連軍は日本に対して宣戦布告し、元山げんざんに向けて南下しているとの話が広まった。やがて15日の終戦を迎えるが、ソ連軍南下一部の朝鮮人が暴動を起こしているとの噂があったので、疎開している生徒を急いで38度線以南まで連れて帰らなければ子供が危ない、と父兄たちはあわてだした。父ら父兄は38度線の先まで貨車を走らせ、子供たち全員を列車に乗せて連れて帰ったが、他の疎開地の状況は全くわからないとのことであった。

この年の夏は暑く、元町小学校が開校していたかどうか定かではないが、校門は開放していたので毎日学校のプールへ遊びに行った。八月末のある日、昼のプールで遊んでいたら母が迎えに来て「早く帰ってきなさい」と叱られた。早速服に着替え、弟と妹を連れて家へ帰った。

母は真剣な顔で、「アメリカの兵隊がやってきて女・子供たちに危害を加える。どうせ殺されるなら自爆するしかない。今からみんなで龍山練兵場へ行こう。」と言って、私たちが目の届くところにいた。母は子供たちを見守っているうち正気を取り戻したのか、夕方父が帰宅してもこの話は食卓の話題にも上らなかった。

今話すと笑い話のように聞こえるが、この時の母の言葉は、いつもの母の言葉ではなかった。


朝鮮人暴徒による一般日本人への襲撃、共産主義国ソ連の朝鮮への軍事侵攻・同時に京城での共産主義者による調略による混乱は、玉音放送から数日の間だけで南鮮域(おおよそ韓国一帯。併合当時は朝鮮半島はひとつでしたので、南鮮・北鮮という呼び方は東日本・西日本というようなエリアを示すものです。)だけでも3000~10000人が犠牲になりました。体験者の居た場所によって犠牲者の数が違いすぎることとキチンと調査されていないため体感に基づく数です。
point日本人側の南鮮域(のちの韓国)での甚大な被害を皆さんはどんな形にしろ聞かされていないのではないでしょうか。体験文にあるようにさながらソ連兵のように赤旗を掲げながら共産主義者が路面電車を乗っ取ったり、道路の往来おうらいを妨げたり、各施設や富裕層ふゆうそうの家を襲うよううながす姿、「日本人を殺せ」と扇動せんどうする怒声、家や工場から引きずり出され襲われ地べたに転がる日本人の姿は、戦後の混乱、そして朝鮮戦争が起こり安保問題へと繋がっていく学生運動盛んな1950年代から60年代の日本においてはまともに取り上げられる機会はありませんでした。
実際は1945年8月15日、日本本土で戦争は終ったとされたとき、あらたな戦争ともいうべき事態に朝鮮半島にいた日本人は巻き込まれていたのです。
そしてこの体験こそが日本の防波堤となる韓国を共産主義勢力から全力で守る、渡せるものは渡す・細かい議論は避ける日本人側の被害に対して謝罪もあらゆる補償も求めない」という戦後、政治家岸信介きしのぶすけの下した決断と、それを支持した朝鮮引き揚げ者の有形無形ゆうけいむけいの協力による最終的な日韓基本条約締結の流れを作る原動力だったそうです。
「自分たちと同じ目を本土の人に味合わせたくない。平和を実感出来つつあった日本をどうすれば守れるのか」難しい決断だったそうです。
日韓基本条約でなぜ両国不可逆(全てを終わらせ、二度と歴史をあかのぼらせない)なのか、どれだけ二国間の約束が重いものだったのか、今回部分でもお分かりいただけたのではないでしょうか。

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