終わりと始まり(2)

決死行けっしこう

昭和20年(1945年)8月15日、京城けいじょう(現在のソウル)を中心に朝鮮半島全域で無数の一般日本人の血が流れるより2年前の昭和18年、京城に駐屯ちゅうとんしていた78、79連隊れんたいは京城の人々に知られることなく出撃をしていました。

その様子を、日本に引き揚げてのち、手を尽くしお調べになった父の同級生の方の文章を一部抜粋してご紹介します。

京城の七九連隊をしの

京城府は歩兵第二十師団、七九連隊の駐屯地でした。

開戦からわずか一年一ヶ月、私が小学三年生の冬休みの頃です。
七十九連隊の死の舞台への幕開けは、京城府民の誰一人知らない間にそっと開かれたのでした。

出動をひか熱地ねっち作戦に明け暮れた猛訓練、全員が髪と爪を入れて遺書を書くように命ぜられたそうです。
時、すでに決死隊の出撃でした。

昭和十八年一月八日深夜、兵舎を出て営庭えいていに整列、雪の中を龍山りゅうざん駅に向う。
道路に張り詰めた氷に足を滑らせて転倒する兵士が続出、完全武装の重みは一人では起き上がれなかったと言います。
貨車に詰め込まれて、零下二十度の隙間風すきまかぜは手足の感覚を奪う。

朝鮮半島南端の釜山ぷさんから総勢4,320名は昭和十八年一月二十一日にニューギニアのウエワクに上陸する。
半年ぐらいで糧食りょうしょくは尽き、高温、多湿な、自然環境の中で激流を渡り、険しい山を越え、ジャングルにひそみ、ありとあらゆる困難が待ち構えていたのでした。

全員がマラリアにかかり、疫病えきびょうは屈強な兵士をも襲う。ほとんどが戦病死、餓死がしの島で心を痛ましめ、目をおおはしむるもの、かくのごときものあらんや、その惨状を語る言葉も無い修羅の地獄でした。

昭和二十一年一月三十一日。引き揚げ船で浦賀に上陸出来たのはわずか2%91名の方々が祖国の土を踏まれたのでした。
「全員、極度の衰弱すいじゃく」やっとやっとの帰国でした。

第20師団管区駐留軍施設と朝鮮総督府鉄道局と南満州鉄道施設があった京城龍山

歩兵営ほへいえい(兵士の居住区) が龍山駅 が京城元町公立国民学校


熱地作戦とは亜熱帯の東南アジア方面での戦闘を想定した訓練のことです。
寒い京城(当時は地図の水色の漢江の表面が凍り、冬季限定のスケート遊びに子供達が夢中になっていた位でした)に駐屯していた部隊の日頃の訓練内容と異なるため、京城府民だけではなく周辺にいるであろうスパイに悟られないように人目のつかない場所での猛訓練だったそうです。

一つはアメリカのスパイに訓練内容から近いうちにここから東南アジアへ兵が移動することを知られないためでした。そしてもう一つは数多くいるであろう共産主義者のスパイに知られないためでした。こちらは朝鮮が共産主義国ソビエトと一部が国境を接しているために、京城の部隊が大きく減ったことを知られると、直ぐに鉄道を使って応援部隊を送れない、越境えっきょう攻撃のチャンスと国境付近で敵対行為を取られる恐れがあったからでした。
油断をしていたらぐに敵が攻め込んで来るかも知れない、ここが島国日本人と敵国と地続きの朝鮮半島に居た日本人の戦後の歴史認識の差にもなっています。

遺品の準備、遺書までも書かせての深夜の出撃は、鉄道で釜山に降りる時間と船に乗り込み港を出る時間からのことでした。既に制海権・制空権(海・空の一定のエリアを自分達の自由に出来る力)を失っている中、が昇ってしまうとアメリカ軍の哨戒活動しょうかいかつどう(飛行機や船での見張り)に引っ掛かってしまい撃沈される恐れがあったからです。もう挽回ばんかい不可能、そんな状況での出撃でした。

駐留日本兵と周辺の子供たちの交流はこの時まであり、急に人気のなくなった駐屯地の異変に子供たち(私の父もそうでした)の方がいち早く気が付いていたようです。しかし戦時下の空気ではそのような疑問を口には出来なかったそうです。
「親しかった兵隊さんがいなくなった」その引っ掛かりが戦後詳しい顛末てんまつを調べられる動機ともなったのです。

point寄港しない長すぎる船の輸送は過酷で船内でも多くの兵士が病や体調不良に苦しみました。昭和14年までに軍より満州・朝鮮の鉄道関係者に告げられていた、大陸側の東南アジア方面に向かって新しい鉄道をき軍の拠点きょてんを造るという計画はこれを防ぎつつ徐々に日本の影響力を高めるためでした。
「それに備えよ」敷設に必要な調査、人員や資材の確保準備を関係者に命じておきながらの昭和15年、その軍が真珠湾に奇襲攻撃を開始。一報を知った事情を知る人達は一様にどうやって兵や物資の輸送をこなすのだろうとあまりの早すぎる開戦に戸惑ったそうです。結果、それは最悪の無策のままの戦争遂行でした。
「何で戦争したんだろう?」「無理なのを知ってたのに」奇妙な会話が戦後の引き揚げ日本人の集まりで何度も交わされていました。


京城を守る兵すらいないことは府民には知らされぬまま戦争は更に続き、昭和19年(1944年)になると不足する兵の補充に元町公立国民学校の校舎を借り受けてまで臨時徴兵署ちょうへいしょを設けます。
昭和19年4月14日より5月6日まで陸軍京城兵事部徴兵署として校舎の一部を使用する。
昭和19年4月17日附京城錦町公立国民学校長山本勝大当学校長4月21日着任。
昭和19年5月4日、徴兵署御実現のため侍従武官じじゅうぶかん尾形健一陸軍中佐来校。随員ずいいん那須兵務局長其他へいむきょくちょうそのた

京城元町公立小学校沿革史より

このように学校を廻って徴兵署の実現を目指していた時、慰安婦強制連行を行っていたというのがどうやら朝日新聞社やその周囲の弁護士、学者の説らしいですが(誰一人父や友人の方達のもとを尋ねてきた人はいませんので最終的な慰安婦強制連行説がどんなものなのかは知りません、その説も最初の頃と随分中身が変わっているようでどれが本物なのでしょうか)当然誰も見た者はいません。
駐留部隊すら失っていた朝鮮の実態とはあまりにかけ離れている慰安婦問題。
新聞社にしろ学者にしろ日弁連弁護士にしろ日本人側に韓国証言の信憑しんぴょう性を確かめるための聞き取り調査をしてどういう証言を得たのか公表してほしいものです(あればですが)。

point78、79連隊の出撃に龍山駅が使われたように、基本ここが大量輸送時の拠点になっていました。夜間の汽車の運行は事前に司令部そばの龍山鉄道局に対し命令が入り対応するもので、少し離れた場所の朝鮮総督府の中に鉄道部門があったわけではありません。また京城駅側にも事務所はありましたがそのような慰安婦の大量運び出しなど見た人間はいませんでした。
付け加えて当時の朝鮮総督府鉄道局・南満州鉄道には既に大勢の朝鮮人の鉄道員が関わっていて日本人と共に事務、現場の業務をこなしていました。

朝鮮から出撃した部隊には朝鮮志願兵制度の下で訓練を積んだ朝鮮系日本人の若者も多数いました。
多数の朝鮮人日本兵もまた東南アジア方面へ出撃して行き同じ体験をしたのです。
次々と亡くなっていく仲間の遺体を病み疲れた体ではどうすることも出来ず、わずかに生き延びた方達は復員ふくいん後、内鮮人の区別なく(朝鮮人だから戦地から朝鮮に帰る船が別途用意された訳ではありませんでした。混乱の中、辿たどり着いた日本で生活をする道を選ばれた方も多くいたのです)共に靖国神社へ参拝され異国にて眠る友に祈りを捧げられたのです。そしてこの方達の存在が朝鮮戦争後韓国を守るべく日韓関係改善を図りたい日本政府の助けとなりました。