日本人と朝鮮人(7)

四、三十餘年よねん躍進やくしんの跡

生産の増加

明治四十四年以来の約三十年間農産は六倍半、林産は十二倍、水産は四十一倍、工産にいたってはじつに百二十倍という激増振りで三十年前の生産総額三億八千萬円は今日鑛産こうさん(鉱産)を除いてもなお四十五億三千萬円という大膨張を示している。

これが昭和十年までの二十五年間に農産は三倍半、林産は六倍、水産十四倍半、工産は四十倍の増加、そして昭和十年以降五ヶ年間において新に農産及び林産各二倍、水産、工産各三倍の膨張を遂げている事實を思い合せると、先の豫算よさんの場合と同様にその躍進の決速調をぼくる(軽快に発展していく将来がうらなえる)と共に、工産の驚異的な勃興ぼっこう(急に盛んになること)に、動きつつある半島産業の指向を感じないではいられない。

の新しき半島産業の姿態したいは、同十五年末現在にける銀行、金融組合、信託、無盡むじん、簡易保険等各種資金の貸出合計二十四億九千九百萬円の中、工業部門が五億七千餘萬円で、農、商、鑛その他の各部を壓(圧)して断然首位にある事實からもまた雄辯ゆうべんに物語られる。

これにともなって銀行、會社かいしゃの数もまた飛躍的に増加し、合弁等によって相當そうとうの減少を見ながらも、同十五年末現在で鮮内に本店を有するものだけでも三千百六十一社、公稱(公称)資本金二十一億六千百餘萬円、明治末年の本支店合計百七十七社、一億二千萬円に比べてもそれぞれ十八倍に達する増勢を示している。
そして此處ここでも工業部門は千百二十六社で全體の三分の一を越える旺盛おうせいさを誇っている。

貯蓄

事變じへん以来拍車を加えた奨励運動しょうれいうんどうの徹底と相俟あいまって貯蓄の増加もまたいちじるしい。
明治四三年始政當時とうじける貯蓄総額は一千三百七十六萬円、一人あたり一円三銭に過ぎなかったのであるが、昭和十六年末には二十三億一千萬円、一人平均九十四円九十銭に上り、金額において百七十倍、一人當り貯金額に於ても九十倍を越える激増振りである。

貯蓄の實績じっせきはなお内地に比較すればお話にならない程劣勢であるとはいえ、赤土あかつち禿山はげやま端境期はざかいきには草根木皮そうこんもくひというほとんど無に近かった窮乏きゅうぼうから此處ここまでぎつけた飛躍の跡は充分に認められてよい。

明治44年(1911年)から30年間で農業6倍半、林業12倍、水産業41倍、工業120倍となったと目覚ましい発展を誇っています。産業の発展に合わせて金融機関もその数を増し明治45年の177社から昭和15年(1940年)で3161社(朝鮮内に本店があるもののみ)約18倍になりました。

貯蓄の奨励しょうれいを行い、内地(日本本土)と比べればまだまだ少ないとしながらも、国土が荒れ果てていた旧韓国時代とは雲泥の差であることを自賛しています。

pointこの時点では戦争に負けるつもりはありませんでしたので、素直に貯蓄の奨励を行いさらなる朝鮮半島発展のための資金作りを行っているつもりでした。
しかし大東亜戦争(太平洋戦争)大敗北に終わると日本人の預けていた分だけではなく朝鮮人庶民の貯金も、この後誕生した韓国政府に裏切者達の資産として差し押さえられるという悲劇を生んでしまいました。
日韓基本条約締結時、朝鮮から引き揚げた日本人側が李承晩りしょうばんを追払った先方に対し可能な限りの個人補償をお願いした背景の一つにもなったものです。

交通、通信機関の発達

交通網の整備

此の様な躍進の姿を数字に拾うならばおそらくそれは数限りもないであろう。

いまここで眼を交通、通信機関の発達にてんじると、朝鮮に始めて鉄道の開通したのは明治三十二年京城けいじょう仁川じんせん間の一部で、爾来じらい(それから)併合までに半島を縦貫じゅうかんして南満州に直通する京釜けいふ(四五〇キロメートル)、京義けいぎ(五〇〇粁)の両幹線を竣工しゅんこうし、其の後大正三年には京釜線の大田から南端の木浦もっぽいたる湖南線(二六〇粁)、京城、元山げんざん間を結ぶ京元けいげん線(二二四粁)を貫通した。

そして今日では咸鏡かんきょう線、満浦線、北朝鮮(朝鮮北側の意)を横断する平元線等の幹線を加えて昭和十六年九月現在鉄路総延長六千二百九十粁、始政當時の五倍半に達し、総延長二萬五千八百粁に及ぶ自動車交通網の整備と相俟あいまって半島の山河は足跡縦横そくせきじゅうおうあまねく(ひろく)文化の恵澤けいたく(恵沢・めぐみ)によくしつつある。

いまでも内地の田舎には朝鮮に行けば虎に食われると真面目に思い込んでいる古老達もないではないが、残念ながら今日では一匹の虎も見ることは出来ない。近代的な交通機関の発達は何時の間にか隠遁いんとん的なの森林の王者を半島から追拂おいはらってしまったのである。
虎に嫌われた半島、こんなのは詩にも物語にもならなくとも、それ自身文化の躍進の一つのあかしとはなり得るだろう。

なお朝鮮の鉄道はただちに満州国の鉄道と連絡して日満支交通の要路となり、更にシベリヤを経由して欧州に達する国際交通の大動脈となるもので、軌幅きふくも一部の支線を除いてほとんどが一メートル四三五の廣軌こうきであることもほこって良いと思う。

なお海運においては上海、島、天津、芝罘しふう、大連等の共栄圏近海航路の外、北方共栄圏の確立にともなって昭和十二年以降北鮮敦賀つるが線、北鮮新潟線等を命令航路に加え、また南洋、印度向け對外たいがい航路及び日本、ハンブルグ線の釜山寄港を實現じつげんして躍進朝鮮の實力を内外に誇示した。

昨年十一月北鮮城津じょうしん沖でソれん浮流機雷の犠牲となった悲劇の気比丸はの北方共栄圏航路の花形船である。
なお下関、釜山間二百四十粁を結ぶ関釜連絡船は朝鮮側には属せず鉄道省の経営となっている。

通信機関

通信機関もなかなか充實じゅうじつした。郵便局所の数も昨年末現在で一千四十四ヶ所となって大體だいたい二ヶめん(面は日本の村に相当)に一所、三里半(一里約四キロ)四方に一郵便所の割合である。これはまた五ヶ年間に二百十一ヶ所の増加という計算である。

更にラヂオの聴取者数によって文化滲透しんとうの模様をうかがうと、昭和二年放送事業開始以来十四年間で聴取者数は二十六萬九千餘となり(当時は要ラヂオ契約)内地の人口千人あたり聴取者数八十八人に對し、朝鮮では十一人そこそこの計算であるが、これを内鮮別に見ると内地人の聴取者は十二萬四千餘人で五人半に一人。ほとんど全戸に行渡っている勘定になっている。

鉄道の敷設ふせつは軍事目的もあり税収の近代化が出来ず貧しい韓国に代り日本側が巨額の資金を全額捻出ぜんがくねんしゅつして作りました。これにより日本より建築資材や設備品が海送、釜山や仁川から鉄道で運ばれ、韓国の近代化が始まったのです。
pointその京城側(王宮、朝鮮総督府)の鉄道基地があったのが龍山になります。終戦までここに軍の拠点(第20師団管区)が置かれ、朝鮮総督府鉄道局の施設もこちら側に置かれていました。
本来ならば慰安婦の強制連行問題の真偽を政府・学者・日弁連・マスメディアが真剣に調査、検証していたのならば、必ずこの周囲に住んでいた日本人側への聴き取り調査があってしかるべきでしたが、私が知る限り父や伯母を含め誰もそういう経験をしたものはいませんでした。

が朝鮮総督府 が京城放送局(ラジオ) が京城駅 が南大門

地図上の青い□が京城に作られた放送局のあった場所になります。
朝鮮の近代化は文化の面からも率先して図られました。契約が必要で高価なラジオはそれを持たない人も図書館や公共施設に設置された物で放送を聴くことが出来ました。
また、国の重大放送などは臨時の街頭ラジオ(通りに特別に設置)という形でも流されました。

point参政権を持たない、すべてにわたって事後報告のような立場に置かれていた朝鮮半島の内鮮人(日本人・朝鮮人)はこのラジオから昭和15年(1940年)12月8日驚愕きょうがく真珠湾攻撃しんじゅわんこうげきを聴かされ、昭和20年(1945年)8月15日、驚天動地きょうてんどうちの敗戦の報を聴いたのでした。
悲劇の始まりと終わりの始まり全てがラジオからだったのです。
上の地図で見るとラジオ放送局の位置と南大門(新聞社支局や出版社多数)の位置が総督府と京城駅に近いのが分かります。
何でもかんでも、国のせい、天皇のせい、軍のせい、総督府のせいにしてマスメディアはえつに入っているようですが、慰安婦の強制連行問題が仮にあったとした場合、満州側への運び出しの列車は京城駅を使うか、ここを通っていかなければなりません。
いったい終戦まで京城駅、朝鮮総督府すぐ側で暮らし働いていた日本のマスメディアは何を見ていたのか、本国にどういうを報告していたのか、終戦後日本に戻ったあとの行動も含めて調査し、国民の知る権利を率先して果していただきたいものです。