終わりと始まり(3)

舞台の準備(1) 

新聞は真実を伝えず、内地ないち(日本本土)を行き来する日本人にはかん口令が敷かれ、内地で見たこと体験したことは口外しないようくぎを刺されていました。
親の仕事の都合で一旦いったん内地に帰り再び朝鮮に戻った小学生の場合は、学校に親共々呼ばれ校長など管理責任者に事情を聴かれるなどしたのち級友にも話さないよう口止めをされたそうです。これは空襲を経験していない朝鮮の内鮮人(日本人、朝鮮人)に本土の惨状が知れ動揺が走らないようにしたものと思われます。
結果破滅はめつの足音は聞こえず朝鮮にいた日本人は大敗北が迫っていることに気づくことはありませんでした。

京城元町公立国民学校沿革史より

昭和20年(1945年)4月からの学校の記録を抜き出して説明していきます。

4月1日収容児童数の減少により2学級閉鎖。30学級となる。

本土の空襲が激化、3月26日より始まった沖縄戦の中、京城(現ソウル)においても徐々じょじょ疎開そかいが始まっていました。
人口100万人を超える巨大都市となった京城からの疎開は、縁故疎開えんこそかいと言われる親類縁者を頼るものから始まりました。前年より京城に残る必要のない女性(親の介護や家事手伝いで親元を離れられない人、挺身ていしん労働(軍需品の生産や軍関係の事務手伝いなど)の割り当てのある人以外)は速やかに疎開に入れる準備をしておくよううながされ、児童においても縁者を頼れ動くことが可能なら親の判断で疎開を始めていたそうです。
その結果、昭和16年時(国民学校に改称した年)児童数1832名・31学級を数えた学校も児童数が減少をはじめたのです。

同4月、葛西隊宿営のため講堂、別館の一部、工作室を貸し出す。

この段階で日本軍が配置を変え出しているのが分かります。葛西隊が学校を一部とはいえ借り受け宿営しゅくえい(軍が兵営の外で宿泊すること)を始めたのです。

オレンジの線内が日本軍第20師団管区 が京城元町国民学校 が龍山駅 小さいが鉄道局

地図で確認するとオレンジ色の枠内が軍施設ですが、設備の整った兵営ではなくわざわざの学校に入ったのです。
これは学校と軍の施設の真ん中に鉄道が敷かれ水色の漢江に鉄橋が架かっていますが、恐らくこの橋か漢江を渡って侵攻しようとするアメリカ軍との戦闘を想定し準備を始めたのだろうと言われています。

7月5日より昭和21年3月31日まで臨時休校とすることに決定。

6月23日に事実上沖縄戦が終了。日本軍大敗北で終わり、沖縄のアメリカ軍兵站へいたん基地(軍事拠点)化が始まっていました。
ここにきて遂に学校を閉鎖(翌年度末までの期限付きが悲しみを誘います)大規模な集団疎開へと移行しました。

point別に紹介している「前進する朝鮮」を見ていただくと分かると思いますが、朝鮮半島は開戦からこの時も内鮮一体ないせんいったいとなって日本本土が勝手に始めた(朝鮮は参政権がありませんでした)戦争に精一杯対応をしていたのです。
しかし終戦後、どのメディアの「終戦特集」「太平洋戦史」「昭和の戦争」も開戦は東京の話か、真珠湾攻撃。それより前は満州事変。最後は必ず沖縄、広島、長崎止まりで、まるで朝鮮半島を日本の領土として認識していなかったかのような扱いをし続けました。
時折本土決戦の話はしても、同時期に実際に進行していた京城の決戦準備には全く触れられなかったのです。
このことによって自ら自国の正しい歴史を学ぶ機会を国民は失い歴史認識で足並みが揃わず、反日国家として誕生した韓国との情報戦に負け続けることになったのです。
同7月、疎開のため京城府龍山区役所第2館に移転する。

疎開の準備をするため、近くの区役所に学校の機能を移しました。
ここで疎開地の選定から割り振りを行っていったのです。

元町国民学校は軍施設に近いため立ち退いてから準備に入っていますが、同時期に京城や仁川の各学校でも同様の疎開作業が始まっていたのです。
南鮮一帯(アメリカ軍の侵攻が想定される京城、仁川じんせん釜山ぷさんだけではなかったそうです)で疎開は行われたと言われていましたが、ほとんど話を聴けた人達は京城の人間でしたのでその他地域の実施状況は分かりません。

しかし内鮮一体方針の下での疎開ですので、当然日本人同様の扱いを受けていた朝鮮人児童も疎開に取り掛かったのです。

そして、このことが終戦時大悲劇を巻き起こすことになりました。

朝鮮第7619部隊宿営のため第1館2階3階、理科室、家事室を貸与する。

さらに部隊が増えて学校で宿営を始めているのが分かります。電気、ガス、水道の通った元町国民学校は宿営場所とすれば最高の環境ではありました。
トイレも洗面台も完備された昭和10年完成の鉄筋コンクリート造りの校舎、全館スチームパイプによる暖房で、そのパイプを各教室、棚のように使った通称弁当温め器と呼ばれるものも設置されていて、児童は昼前の適当な時間に持参した弁当を置いておくと丁度よい暖かさに温められた食事をとることが出来ていたそうです。

最初に話を聞いた時には自分の子供時代の学校より恵まれた設備に信じられない思いでした。学校の詳細を下に記します。

学校の紹介

校地総面積4631.4坪
そのうち従来より学校組合の分191.4坪
鉄道用地の無償払い下げ4440坪
鉄道用地の無償借地234坪

4600坪の敷地に建てられた設備(昭和10年記録時点)は以下の通りです。

奉安殿(天皇陛下の写真と教育勅語を収めた重要施設)鉄筋コンクリート平屋
講堂 木造平屋 180坪
本館 鉄筋3階建て 697.5坪
2館 鉄筋3階建て 585坪
別館 平屋 60坪
理科室 木造平屋 52坪
職業室 木造平屋 60坪
宿直室及び小使室
温室
倉庫
屋外便所
教員宿舎 1棟1戸、2棟2戸
運動場 2899.46坪
学校園(菜園)299.4坪

この大きな学校施設をまず葛西部隊が講堂(180坪)、別館の一部(60坪中一部)、職業室(工作室・60坪)を借り、このあと朝鮮第7619部隊が本館(1館・697.5坪の2階と3階)、理科室(52坪)、家事室(記載なし)を借り受けたのです。

先の激戦の痛手をいやし、兵、武器、弾薬の補充が終わり次第、沖縄から上陸作戦を仕掛けてくるであろうアメリカ軍を迎え撃つ準備はこうして進んでいきました。
pointこのころには愛国班あいこくはん(隣保班りんぽはんとも言われた本土の隣組となりぐみ同様、朝鮮の戦時体制を支えた町内会のような末端組織)を通じて防毒マスクの購入が呼びかけられ府民にも京城での戦いが近づいていることが感じられるようになって行きました。
防毒マスクはアメリカ軍が化学兵器を使うかもしれないとの噂が立っている中での購入案内だったそうですが、終戦後判明したことによると実際は密かに日本軍が京城の地に運び込んでいて、最終段階で使用する予定だったのではないかと言われていました。
満州国か北鮮(平壌へいじょう)の工場のどちらかからの搬入はんにゅうが疑われていましたが、玉音放送ぎょくおんほうそうが8月15日に間に合わずアメリカ軍が南鮮からの上陸戦を行っていれば、京城(現ソウル)という100万都市での化学兵器使用というとんでもないおまけがついた上に北鮮から侵攻してしてきたソビエト軍による挟撃を受けて沖縄戦の数倍あるいは10倍の死者数を出しての敗戦になっていたのかもしれません。

 

マーク上が京城 中央が済州島さいしゅうとう 下が沖縄 

アメリカ軍は制海権・制空権を失った日本軍を済州島に張り付けておいて素通りして仁川上陸から京城への進撃は可能でした。済州島で迎え撃つ計画だけでは、仁川ルートの場合は京城までの距離は約40キロしかなく、大規模な部隊を上陸しなおして京城の守備に就かせることは時間的に不可能だったのです。

また巧みなアメリカ軍の爆撃で下関港、博多港の機能もマヒを起こす中では帝国機動艦隊も失われた当時、満足に護衛の出来る艦船も少なく輸送船の枯渇こかつと本土自身の防衛のためもあり海を渡っての増派ぞうはは出来ず、78連隊、79連隊をすでに失っていた京城守備には満州側からの応援(邁進まいしん部隊)に頼るしかありませんでした。

そのため、連日子供や未婚の女性等を北鮮方面へ疎開させ満州から呼び戻した部隊を京城守備に就かせだしていたのです。当然この動きは領土の一部が朝鮮半島と接しているソビエトのスパイである共産主義者にはばれていました。
なにしろ早朝から親子が大きなリュックを背負い、リヤカーで貨物列車に当座の生活に必要なものを積み込んでいたのですから。
武力が去り、無力が集まる。明治以来朝鮮半島をめぐり争ったソビエト(日露戦争時はロシア)は笑いが止まらなかったでしょう。

point京城駅には邁進部隊がぞくぞく到着、代わりに龍山駅からは女子供が北鮮方面へと疎開をしていく中、日本政府はソビエトに対しアメリカとの講和の仲介を頼んでいたのです。
舞台の準備は整いつつありました。朝鮮半島の内鮮人、朝鮮守備の日本兵、朝鮮人志願兵、満州国人、大陸で戦う日本兵の知らないうちに、終戦前しゅうせんまえ数日からの悲喜劇は真珠湾攻撃を始めた本土の軍人と政治家、官僚のシナリオ沿って幕を開けようとしていたのです。 

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