日本人と朝鮮人(8)

四、三十餘年よねん躍進やくしんの跡(2)

ここで「前進する朝鮮」は当時の朝鮮半島の教育がめざしたもの、皇国臣民化こうこくしんみんかについてふれていきます。
子供のうちに必要な学力と体力、道徳、協調性を植え付け忠誠心厚い、日本人に負けない優秀な朝鮮人(韓国人)の大人を増やすのが目的でした。
当然ですが、そのために行ったのは長期にわたる小学校の設置計画やその他の補助学校の設置計画であって、現在の韓国や一部日本人が言っているような朝鮮人の子供を不当に差別したり、連れ去って慰安所に引き渡すことではありませんでした。

皇国臣民化こうこくしんみんかの完成

半島教育の指標

立派な皇国臣民をつくる。半島人を立派な皇国臣民に育てあげる
日本人のほこりを誇りとし、またその光栄と共に生き抜く本當ほんとうの皇国臣民を錬成れんせいする。光輝ある国體精神こくたいせいしんの下、断乎だんことして百難邁往ひゃくなんまいおう(いかなる困難にもくじけずひたすら進む)、不撓ふとう不退轉ふたいてん(何があってもひるまずくっしない)の強靭きょうじん體力たいりょく、意力を錬成する。

ここに今日にける半島教学の指標がある。そして内鮮一體の完成、皇国臣民化の徹底はまたひとえに教育の普及につのである。
すなわち教学の振作しんさく(盛んになる)が南総督五大政網せいこうの一をなす所以ゆえんであって、立派な日本人をつくる教育は、半島においてこそ最も切實せつじつに要請され、またかかる教育の普及を俟って始めて半島の皇国的一體化こうこくてきいったいかは達成されるのである。

したがって歴代総督の施政は常に教育の普及に深い努力が注がれ、明治四十五年五月現在で内鮮合してもわず五百三十五535校、児童数六萬六千6万6000にすぎなかった小学校は、大正十一年めん一校(面は日本の村に相当、3村で1小学校)昭和三年二面一校、昭和十一年にはついに一面一校計画を完成して二千四百九十八2498校、児童数九十三萬93万(内地人八萬六千8万6000、朝鮮人八十四萬七千84万7000)に達するにいたった。

これは施政二十五年にして学校数において四倍半、児童数では十四倍の増加であるが、しかしこれを朝鮮人学齢児童の総数に比すればなお二割五分内外の就学率にすぎず、前途はなおすこぶ茫洋ぼうようたるものがあった。

そこで南総督は一面一校完成の昭和十二年から初等教育擴充かくじゅう倍加十ヶ年計画を樹立、半島人児童に對する教育の普及に一層の拍車を加えることになった。
の計画はまもなく時勢の進運が彌々いよいよ国民錬成の促進を要望する所喫緊きっきん(差し迫って重要)なるにかんがみ、昭和十二年以降同十七年まで六ヶ年に短縮されて急速な完成を図ることになり、本年はすなわちその完成年度にあたるわけである。

義務教育への前進

これは一言にしていえば施政二十五年の成績になった児童収容力を、わずか六ヶ年でもってこれに倍加する實数じっすう擴充かくじゅうしようとするものであって、朝鮮教育会にける画期的計画であるということが出来る。

しかも従来の計画がいずれも学校数の分布的増加を主としたのにたいし、今回の擴充はただに学校の新設に止まらず、各般の事情におうじてあるいは学級の増加を図り、或いは二部教授を開設し、あらゆる方途ほうとによって収容力の實質的増加に重點じゅうてんを置いた所に特色がある。

の結果昭和十六年五月現在の初等学校は内地人側五百二十七527九萬五千9万5000人、朝鮮人側三千百二十九3129百五十七万六千157万6000名となり、朝鮮人児童就学率は推定学齢児童がくれいじどう(小学校で学ぶ義務のある子供)数の五割に増加した。

の間昭和九年から国民教育の急速な普及を図る目的をもって、入学年齢を満十歳以上、修業年限を二箇年とする簡易学校が開設され、昭和十六年五月現在千五百五十八1558校十四萬六千4万6000の児童を収容し、此の簡易学校を含めば同年の就学率は大體五割五分である。

しかして第二次擴充計画かくじゅうけいかくの完成である昭和十七年には朝鮮人児童の収容力は百七十四萬174万に増加、推定学齢児童三百十九萬二千319万2000に對し五割四分、簡易学校を含めば六割の就学率となりここに義務教育制待機の態勢を完成するのである。

そして此の間昭和十三年には原則として内鮮による教育機関の別を撤廃し、朝鮮人児童を収容する普通学校も一様に小学校と改め、同十六年には内地に即應そくおうして全部国民学校と改称した。

すで朝鮮語の教授は廃止され、教科書にも逐年ちくねん(年々)改正を加えて、朝鮮の特殊事情を加味した教材を加えつつ皇国臣民教育の徹底をしている。

大学一校、官公私立専門学校十九校、中等学校は男女を合して三百八十四384校、国民学校から大学までの学生、児童総数百九十五萬195万(昭和十六年五月現在)、明治末年に比して三十倍、総人口の一割を校門に収容するという教育の普及発達は、まさに皇道統治の典型として世界に誇るべきものである。

昭和17年(1942年)自分達の進んでいる方向に迷いがありませんので、総督府は過去の具体的な数字と比較して朝鮮教育界の進展を誇っています。
明治、大正、昭和の3つの時代をかけて作り上げたこの教育環境は、巨額の費用だけでなく、志高く教育に携わった内鮮人の努力で成し得たものでした。
それ故に、皇道統治の典型として世界に誇るべきものと書いているのです。

初等学校(昭和17年5月末日現在)

学校種別 学校数 学級数 児童数(内地人) 児童数(朝鮮人) その他 合計
官立国民学校 14 129 625 6270 6895
公立一部国民学校 532 2584 97137 5656 16 102809
公立二部国民学校 3110 23258 1040 1683894 11 1684945
私立認定学校 141 870 28 63426 63454
公立簡易学校 1680 1715 2 117209 117211
合計 5477 28556 98832 1876455 27 1975314

上の表は朝鮮事情(昭和19年版)より抜粋したものです官立国民学校の数字が本資料では5895となっていますが、単純な計算ミスと思われます。

師範学校しはんがっこう(昭和17年5月末日現在)

学校名 学校数 学級数 内地人 朝鮮人 合計
京城けいじょう師範学校 25 641 459 1100
大邱たいきゅう師範学校 18 247 586 833
平壌へいじょう師範学校 18 119 591 710
全州ぜんしゅう師範学校 15 48 651 699
咸興かんこう師範学校 15 80 624 704
光州こうしゅう師範学校 16 62 632 694
春川しゅんせん範学州校 11 27 518 545
晋州しんしゅう師範学校師 12 46 580 626
清州せいしゅう師範学校 24 576 600
新義州しんぎしゅう師範学校 265 265
公州女子師範学校 13 364 321 685
京城女子師範学校 17 479 430 909
合計 12 176 2137 6233 8370

師範学校とは教員養成の為の学校です。

昭和17年(1942年)の段階で小学生197万5314人が学校に通い、義務教育完全実施へ向けて8370名の教員志望の学生が勉学に励んでいたわけです。
国民学校(小学校)は統合されたからといって通学エリアが劇的に変化したわけではありません、一部と二部・旧尋常じんじょう小学校(内地人児童用)旧普通学校(朝鮮人児童用)の内鮮人数の比率が大きく違うのはその為です。
昭和13年に正式に朝鮮語の教育は終了したものの、旧普通学校の二部国民学校は朝鮮人児童が多いため一応朝鮮社会に配慮した教育もやっていたということです。

泥沼化した中国大陸の戦争とさらなる対米戦争をも想定した日本の皇国民化運動は朝鮮にも大きな影響を与えました。
初等教育拡充倍加10ヶ年計画を立ち上げ、それを前倒しで実現するには日本人と朝鮮人の教育一本化は避けられませんでした。皇国民を育てるのに日本人も朝鮮人も同じ教材を使えば、量産も配布も、指導者に対する指導要領も統一でき、戦費が国家予算を圧迫しているなか教育費用を抑えられ指導管理も楽になるからです。
結果、朝鮮語の授業は公的教育より消されるということになったのです。

point韓人の近代化を助けよ」ここに明治天皇の大御心を伝えた伊藤博文の教えは完全に消えたのです。
「あれほど伊藤公に念を押されていたのに・・・」「母国語教育の機会を失わせて大変申し訳なかった」私の周りの朝鮮引き揚げ日本人が痛恨事として最も多くあげたものでした。

学校から朝鮮語の教育が消えた代わりに、社会全体で取り組んだものが国語の普及促進になります。
国語とは日本語のことで、普通学校制度導入より前の世代の朝鮮人に対しても、立派な日本人になるには国語の取得からと官民挙げて熱心に取り組まれました。

国語の普及

の様な教育の普及にともって国語をかいする朝鮮人の数も逐年ちくねん増加し、昭和五年百六十160餘萬よまんだった国語解得者は、十年後の昭和十五年には三百五十七357萬人となって、朝鮮人総人口の一五.六%を占めるにいたっている。

これは老若男女ろうにゃくなんにょをおしなべての数字であるから、成人の男児のみについて見れば、ほとんどその半数以上に普及しているとみて良いであろう。別表

今日ではすでに国語の習得は朝鮮人にとっても国民常識であり、また国語の普及は内鮮一體ないせんいったいの大いなるくさびをなすものであるから、正規の教育機関ばかりでなく、各部落に設けられた短期の国語講習會こくごこうしゅうかい等には五十、六十の老翁ろうおうあるいは三十だい(台)、四十臺の主婦達の子供をおんぶした手習てならい姿も見られて涙ぐましい情景を描く。

また夏、冬の休暇には中等学校以上の男女学生を動員し、国語指導隊を編成して農村の隅々まで国語の普及に活躍せしめている。
の国語講習會は昭和十三年から始められ、十五年度の開催数は七七四九7749箇所、受講者四十萬に及んだ。

国語普及状況

昭和7年 昭和9年 昭和11年 昭和13年 昭和15年
国語を稍解しょうかい(やや理解)する朝鮮人 825000 857000 1053000 1326000 1730000
普通会話に差支さしつえない朝鮮人 716000 834000 1051000 1392000 1843000
合計 1541000 1691000 2104000 2718000 3573000

各地で開かれた国語講習会。言語を覚えることがなかなか難しい高年齢の人から、家事、子育てをしながらの夜間国語講習への女性の出席など、朝鮮人側の負担が増大するものでした。

point日本が朝鮮人に国語の習得を進めたのは朝鮮文化を否定してのことではありませんでした。先に触れたように大東亜共栄圏構想の実現のためには日本語の出来る日本人の様な韓国人が必要だったからです。
彼らを日本のパートナー、大やまと民族の一員としてアジア全域に送り込みインフラの開発担当者・教育者として指導にあたらせる狙いでした。
これは、常々つねづね朝鮮開発でも問題になっていた本土日本人の引きこもり症のせいであり、近代化の指導者が想定必要人数を絶えず下回っていたからでもありました。
特に専門性の高い技師や医師が常に不足していたため大東亜共栄圏建設の人手不足を優秀な朝鮮系日本人又は韓国人で補う予定だったのです。
ですから終戦まで朝鮮人同士が朝鮮語で話すことを禁じてはいません。
朝鮮総督府がまとめていた数字でも約2400万人中360万人程度の日本語理解者数でしかありませんでしたので、今日こんにち韓国が言っているような徹底的に朝鮮語を奪った状況では生活が成り立つはずがありません。しかし、朝鮮半島あげての皇国民化のさなか朝鮮語だけの使用は、近年増えている社内公用語が英語の会社で、堂々どうどう日本語のみでコミュニケーションを成り立たせようとするようなものでした。
もれなく
出来の悪い人のレッテルを張られるか、愛社(愛国)精神を疑われ孤立するかの道がまっていたのです。

皇国臣民の誓詞

かくてひたむきな皇国臣民化への努力は、二百萬の学徒の口から、あるいは愛国班の常會じょうかいやいろいろの式やもよおし等において、内鮮二千四百萬の人々の心の底から次の様な誓いの言葉となってほとばしり出る。

それは半島に於ける国民儀禮ぎれいの一部をなし、一萬いちまんが一萬、十萬が十萬、高らかにの誓詞をとなえるのである。

皇国臣民の誓詞

一、我等われらは皇国臣民なり 忠誠ちゅうせいもって 君国くんこく(天皇と国家)にほうぜん
一、我等は皇国臣民は 互に親愛協力し 以て団結を固くせん
一、我等は皇国臣民は 忍苦鍛錬力にんくたんれんりょくを養い 以て皇道(天皇の行う政治の道)を宣揚せんよう(世に示す)せん

このような誓詞(ちかいの言葉)が式典や学校行事の前において、さながら高校野球の選手宣誓のごとく代表者が読み上げたり、老若男女ろうにゃくなんにょ内鮮人の区別なく皆が大きな声に出して唱和しょうわさせられていたのです。

pointだからこそ、朝日新聞が記事を書き、日弁連弁護士や大学教授達が「慰安婦の強制連行」を唱えだし、海外にまで告げ口に回っていても、河野談話という屈辱的な談話が出され一報がニュースとして伝えられるまで、朝鮮引き揚げの日本人達は自分達の問題という認識になれなかったのです。
終戦まで連日の様に続いていた、愛国班による監視、皇国臣民化のための式典や行事が半島隅々すみずみとりり行われているなか、朝鮮人の女の子狩りなどあるはずも、出来るはずもなかったからです。
皇国臣民化とは等しく神である天皇陛下の子供であるというものですので、朝鮮人の女の子を選別して連れ去るという行為はこの政策の逆を行くもので、命令違反にあたり天皇の軍隊であった日本軍には実行不可能でした。
また大規模な駐留部隊を前線に取られ、多くの朝鮮人志願兵が連日日本兵より訓練を受けている環境の中、その様な卑劣な行為が露見ろけんすれば習いたての戦闘術で反乱を起されるリスクを取っていたという矛盾だらけの話なのです。

さらに併合時代の朝鮮では日本の新聞社、裁判官や弁護士が多数働き、東大、京大など帝国大学教授も京城大学に派遣されていたのですから、まさか自分達の同僚が先輩が非人道的行為を見て見ぬふりをしていました、訴状をもみ消しましたなどということを言いだすとは思うはずもありませんでした。

内鮮の通婚つうこん(結婚)

内鮮の配偶関係も最近とみに(にわかに)その数を増加した。
大日本的融合、大いなる内鮮一體の完成においてその血液的な結合の促進せられることは、その優越せる日本の血をもってする半島の皇国化であって好ましい傾向といわねばならぬ。

その内訳は次表のごとく(下記別表)
昭和三年の五百二十七組は昭和十五年には千四百五十三組と増加し、内地人(日本人)で朝鮮人を妻とする者の数は、朝鮮人で内地人を妻とする者に比べて急激な勢で増加しつつある。

これは大東亜の指導者たる内地人男子の間に、皇道的内鮮一體の理解が浸透しんとうした結果であると思われるが、子女しじょたいする日本的陶冶とうや(育成)は、夫が内地人であるよりも妻が内地人である場合の方がその日本的錬成れんせいにより良好な成果を収めるといわれ、このてん女性の理解に期待する所大である。

いたずらに島国日本の質的低下をろんずるよりも、大いなる日本の全體的な資質の向上を期さねばならぬ。
内鮮の血液的混融こんゆうの促進は、皇国の大東亜的、更に世界的成長に於て必然でありまた當然であるといえよう。

施政三十年にしてわずか千五百組という数字は決して多いとはいえないが、これは政策を以て結ばれるものではないし、また鮮内に於ても内縁関係のための計算に入らないものも相當多く、内地では更に年々朝鮮の十倍もの内鮮通婚が行われているのであって、日本全體としての實数じっすうはこれより数倍も多い見込みである。

昭和3年以降3年間の通婚数

夫が内地人の場合 妻が内地人の場合 合計
昭和3年(1928年) 268 259 527
昭和4年(1929年) 311 304 615
昭和5年(1930年) 393 396 789

昭和13年以降3年間の通婚数

夫が内地人の場合 妻が内地人の場合 合計
昭和13年(1938年) 732 535 1267
昭和14年(1939年) 799 554 1353
昭和15年(1940年) 869 584 1453
4章の締めは日本人と朝鮮人との結婚の状況を持ち出しつつ、再び内鮮人の血液的な結合の必要性を念押ししています。
しかしながら、政策で男女の仲は取り持てないことをはっきりと書いています。
この様に資料があっても、総督府の朝鮮統治が民族浄化から男女の婚姻まで強制したナチスドイツと同一視したがる日本人が多いのは、当時から総督府を悩ませていた本土の日本人の朝鮮嫌いからくる無知と自ら歴史を学ぼうとしない姿勢なのでしょうか。