終わりと始まり(4)

京城けいじょう疎開そかいと米ソの思惑おもわく

京城元町公立小学校沿革史より


     終わりの始まり第3回

昭和20年、沖縄陥落を受け米軍を迎え撃つべく京城(現在のソウル)決戦準備に入る朝鮮の日本軍。

今回は第3回目の続きとなります。玉音放送が流れるその時まで日本の置かれた現実を知ることのなかった朝鮮半島の人々の状況を京城元町国民学校の疎開を例に説明します。

京城 仁川 倉洞 開城

上の地図が併合時代の朝鮮半島
鉄道を示す黒い線が下から上に伸びていっているのが分かります。
日本側の空襲の影響で下関と釜山の関釜かんぷ連絡船の運航もままならないなか、本土へ戻るのではなく、なるべく安全と思われる北鮮へ鉄道を使って移動することを選択する人も多かったのです。

そして下の地図が現在の物となります。南北が分断され開城の部分が北朝鮮になっているのが分かります。
一部のおかしな日本人が言っているような南北分断を日本が起こしたのではないのが分かるのではないでしょうか。

南北分断が起きたのには共産主義国ソビエトが関係しているのですが、この部分が日本の歴史教育においてはどうゆうわけかキチンと説明されないのです。

昭和20年8月上旬に集団疎開地決定・倉洞・全谷・徳沼・開城に疎開又は疎開荷物を発送する。

朝鮮守備の日本軍も朝鮮総督府も仁川じんせん水原すいげん廣州こうしゅうから攻め上がってくるアメリカ軍を想定して布陣、疎開をしていたのです。
上の併合時代の地図を見ると青い漢江かんこうが北上をはばむように流れ、容易に敵の戦車や兵士が京城に入れないのが分かります。
ですからアメリカ軍が釜山から上がってきたとしてもここで決戦をするべく京城より北鮮側の倉洞そうどう開城かいじょうに児童や女性を疎開させてました。

朝鮮半島に敷いた鉄道も龍山りゅうざん駅と京城駅という京城内の駅を経由していたわけですから、これが落ちればたとえ満州まんしゅうの日本軍が抵抗しようとしても兵の交代は出来ず武器、弾薬の補給も受けることが出来なくなるのです。

朝鮮の京城が落ちれば満州が落ちるのも時間の問題だったのです。

明治以来の日本の安全保障政策が根本かららぐ、それが満州方面から兵を呼び戻してでも、京城での戦闘準備を急いだ理由でした。

pointここでもう一つ重要なことはこの京城の場所には明治天皇が居られ(朝鮮神宮の祭神さいじんは天照大神と明治天皇)この地の繁栄を見守られていたことです。
そして東京と等しくこの地も同じように治めなさいという大御心おおみこころを示された明治天皇の代理として、日本史上初の皇太子殿下(嘉仁よしひと親王・のちの大正天皇)外国訪問の地も韓国でありこの京城だったのです。
あらゆる意味でこの地の重要性を認識していた朝鮮側の日本人としてはここ(聖域)を死守しなければならなかったのです。

朝鮮側で準備を進めている一方で、本土側は能天気にソビエトにアメリカとの講和の仲介を頼んでいたのです。
真珠湾攻撃からの対アメリカ戦を始めた軍指導層は陸海軍ともに、それぞれの学校(陸軍士官学校・海軍兵学校)の卒業年度や考えの近い人間で派閥を作り、自分の出世と組織の利益しか考えられない程度の人間だったと言われています。
明治維新を成し遂げ、世界を知りアジアの人々が過酷な植民地支配を受けている事態を理解し、そうならないために必死に日本を変えていった人達とは異なり大きく劣化していたのです。

国の仕組みが固まった頃から将来国を動かすであろう士官候補生に早くから近づき、飲み食いをさせたり時に女性を世話したりしてたくみに取り入る財界人も多く、口ではこうを唱えながら行動はわたくしのためというやからが増えていたとも言われています。

そんな人間たちでは朝鮮半島の中心京城が落ちることは明治時代の興亜(アジアの発展を日本が中心に行い地域の平和を導きながら敵となりうる国の軍事基地を遠ざけ日本の安全圏を広げる)から拡大した大東亜共栄圏さいとうあきょうえいけん構想そのものが終わりをげることであり、島国日本などに閉じこもり本土決戦と言ったところで何の意味もないことすら考えられなかったのです。

自分たちで朝鮮総督府にどんな方針(下をご覧ください)でのぞむように命じていたのかさえ頭の回らなくなった指導部が率いる日本。
そんな状態ではソビエトを仲介役にアメリカと講和など出来ないことを気づくはずもありませんでした。

前進する朝鮮(3)

日本人と朝鮮人は大東亜の選ばれたる指導者

pointアメリカもソビエトも朝鮮半島を手に入れれば、大陸への窓口を失った島国日本など閉じ込めておくに容易たやすいことは最初から分かっていたのです。
東京大空襲を筆頭に本土空襲を絶え間なく行い、下関、博多など日本海側の港を潰しておきながら、なぜ日本第5位とも言われた巨大都市京城(現ソウル)、そこから40キロ程度の仁川、朝鮮半島側の日本との玄関口釜山を見逃していたのか、簡単な話でした。
日本が40年近くかけて現地朝鮮人と作り上げたインフラをそっくり手に入れた方が得だったからです。

沖縄が手に入り、朝鮮側を無傷で手に入れられればそこに作った飛行場から間断なく空爆、船からの艦砲射撃によって日本攻撃が出来るのです、最も人的損傷が大きくなる上陸戦などしなくてもよかったのです。

あとはどう料理すればいいかだけでした。ナチス率いたドイツは敗れソビエトが南下を出来る条件は整っていました。そこに、わざわざ戦う力がないことを日本政府が知らせに来てくれたのです。

朝鮮半島に潜り込ませていた共産主義のスパイからも続々南鮮域から子供や女性が北鮮域に退避し出したと報告が上がってくるのですから、これで攻め込むなという方が無理でしょう。
日露戦争で煮え湯を飲まされた日本への報復が出来、ロシア帝国時代果たせなかった朝鮮半島への影響力を拡大できるビッグチャンス到来なのですから。

pointアメリカとソビエトは戦後CIAとKGBと言われる諜報機関を用いて世界中で新しい戦争(情報戦)をするわけですが、当然この時も、その流れへと繋がる情報機関が日本を分析していました。
アメリカが本土を狙うそぶりを見せておけば日本本土防衛で国内の兵は釘付けに出来るのです。代わりに朝鮮を守ろうとすれば満州の兵を回すしかない。ある程度の情報とまともな判断が出来れば簡単に分ることです。
あとは被害の大きくなる上陸作戦の回避だけだったのです。
日本が経験に学んだ元寇の役や直近アメリカ軍が経験したノルマンディー上陸作戦、沖縄の戦いによって海からの上陸こそが最も難しく被害が大きくなるのは分かっていたのですから、アメリカ軍を警戒し南に兵が集まったなら北からソビエト軍が襲えばよかったのです。
日本軍が移動し防衛力が薄らいだ満州、朝鮮半島の咸鏡北道かんきょうほくどうの一部と国境を接しているのはソビエトだったのですからためらう理由は何ひとつなかったのです。

こうしてアメリカとソビエトが日本との戦いを少ない損害で勝利を収め、新しい兵站地へいたんち(本国から離れた軍が置ける地帯)を手に入れる算段を付けたと同時に今日に繋がる朝鮮半島南北分断も避けられないものとなったのでした。