終わりと始まり(5)

昭和20年8月15日 重大放送

昭和20年(1945年)8月15日、京城(現ソウル)はいつもと同じ朝を迎えました。
大都市としての経済活動だけでなく、挺身活動で軍需品の製造割り当てを受けた内鮮(日本人・朝鮮人)の女性は、近づく戦いに備えて軍服の縫製や武器の製造工場で忙しく働き、疎開割り当ての決まった児童は早朝から親兄弟と共に疎開列車に荷物の積み込みを行っていました。
そして正午、重大放送が日本本土よりラジオ電波にのせて海を越え朝鮮半島にも届いたのです。
日本の敗戦を知らせる玉音放送でした。

□ソビエト領ニコリスクウスリースキー、ウゴリナヤ 元山 平壌 京城

pointいつも通り過ぎたというべきでした。放送前すでにソビエト軍は朝鮮半島の咸鏡北道かんきょうほくどうと接したエリアから日本領朝鮮へ侵攻を始めていたのです。
問題は疎開をしていて現場から逃げ延びた方の話によると、ソビエトが出した対日宣戦布告の8月8日よりも早い6日には国境を越え戦火が上がっていたということです。
真珠湾奇襲攻撃しんじゅわんきしゅうこうげき是非ぜひは取り上げられてもなぜかこの部分はキチンと議論されないのですが、普通に暮らしていた国境付近の内鮮人の前に宣戦布告なしに突然ソビエト軍が現れ、民間人の大量殺戮さつりくを始めたという事になるのです。

凄惨な現場だったそうです。何より恐ろしかった言われるのはソビエト軍を構成していた末端の若い兵士が笑いながら内鮮人を暴行し殺していったということです。

彼らにとってはアジア人の区別などつかないので日本人だけを選んで殺したのではなく見境なくの蛮行ばんこうだったのです。

若い女性に手をかけ、家族が抵抗しようものならためらわずに射殺、刺殺しさつし、転がった遺体から金目の物を物色する姿はおよそ軍隊と呼べるようなものではなく野盗やとうの群れのようだったそうです。
既に息絶えた遺体からむりやり指輪を外したり、ふところの時計などもきっちり盗っていく姿は共産主義も所詮しょせんは実態の伴わない空論にすぎないことを印象付けました。


終わりと始まり(京城カタストロフィ)

玉音放送からの京城のことは「終わりと始まり」に書いた通りになります。

紹介した柳会の文章でもあるように15日にはもう元山げんざん近くまでソビエト軍は迫っていました。平壌へいじょう(現在はピョンヤン・北朝鮮首都)は玉音放送終了後、日本軍が抵抗を止め落ちたと言われています。

そしてその文章中、10日にソビエトが宣戦布告をして朝鮮に入ってきたことを知ったと書かれているように、侵攻をうけていた当事者たる朝鮮在住者は全くそのことを朝鮮総督府からも軍司令部からも聞かされていなかったのです。

10日に知った人は逃げ延びてきた人たちの話を伝え聞いてですし、京城からは15日まで、正確には重大放送が玉音放送だと分かるまで疎開先に子供や女性、大量の疎開荷も運び出していたのです。

point玉音放送終了後、京城を中心に朝鮮半島で起きていたのは本土の平和への安堵とは全く異なる混乱と絶望と急激に増えた人の死だったのです。


ソビエトの宣戦布告から玉音放送までの謎

一体この事態がどういうことだったのか私が聞けた範囲では分かりませんでした。いい加減な情報を残そうとも思っておりませんのでここからは謎になっている部分について書いておきます。

そもそも日本政府から朝鮮総督府や朝鮮軍に対してソ連の宣戦布告はすぐに告げられていたのか?知っていて総督府や軍は黙っていたのか?

疎開をしたところで、北から逃げた人達はまた南に戻ってくることは地形的に分っていたはずです。そうなれば、玉音放送が流れなければ数日中には京城に北鮮側の市民を追い立てるようにソビエト軍が来襲してきたわけで大混乱は必至だったはずです。

さらに京城には朝鮮総督府官吏かんり(役人)の住居もあったわけですし、彼らの子供も疎開に入っていたのです。
鉄道にしても止めなければ進んだ先でソビエト軍に捕獲され向きを変えて大量のソビエト兵の輸送に使われる可能性もありました。

それにも関わらず何の手も打たずに15日を迎えていたのです。

かん口令を出していたのか?

れならば、ソビエト襲撃の事態に備えてすでに京城に展開していた部隊を鉄道を使って北方面守備に回してもおかしくないのですがその様な動きはありませんでした。軍もいつもの通りだったと言われています。
そのために15日も変わらず龍山駅では早朝から疎開列車が支度に入っていました。

学校の記録でも15日は玉音放送しか書いてありません。16日に疎開先から児童を戻せたときには既に朝鮮人暴徒の襲撃は手が付けられなくなっていて、疎開先の施設や停車中の列車を襲い子供の衣類から茶碗や布団まで持っていったそうです。

挺身活動にも変更はなく、さらにやって来る満州からの部隊のため軍服の縫製も進めていました。京城の場合、決戦準備をしていたこともあり、重大放送は京城や本土の決戦についての奮起をうながすもの程度に考えた人も多くいましたので各挺身労働の場でも管理者だけが集まってラジオを聴き、放送中も作業は続けていたそうです。

また警察も敗戦という非常事態に備えた配備ではなかったため放送後しだいに勢いを増しだした朝鮮人暴徒を止めることが出来なかったのです。

赤旗を振って朝鮮人暴徒を扇動していた共産主義者はどこから来たのか?

15日正午からしばらくは、低賃金で働かされていた朝鮮人労働者(これが多く徴用工と呼ばれたもので、今のブラックな職場位のイメージでよいかと思います。日本人の労働環境も大差ないものだったのも事実です。)や日頃の日本人の上から目線の言動、出稼ぎ又は留学した日本本土での自分たちに対する差別的態度への積もり積もった不満が爆発した数を頼みとした脅迫、強盗の類でした。

中には雇ってもいなかった朝鮮人数百人にお金をむしり取られた人もいましたが、金や物を手に入れれば去っていく、ここら辺がいわゆる普通の暴徒になります。

これが16日夜が明けてから次第に変わっていきました。京城のあちこちで共産主義のシンボルの赤い旗が振られ、リーダーと思われる人物が指をさして的確に交通機関をマヒさせたり、公的施設や企業などを襲いだしたのです。体験文にもある、さながらソビエト軍のようにという例えにふさわしい変化だったそうです。

さらに「すぐそばまで来ているソビエト軍が解放してくれる。日本人を殺せ」と叫ぶ者もいて、興奮状態の朝鮮人暴徒を煽り混乱に拍車をかけていったそうです。

これは地方に隠れ潜んでいた共産主義者が京城に終結、事前にソビエトの軍事侵攻にあわせるよう指導を受けていて行動を起こしたのではと言われていました。
駅周辺を混乱させたり、朝鮮総督府周囲から人が動けないようにすれば南進を続けるソビエト軍には都合がよかったのです。

日本政府が講和交渉を始めたためにつけこまれたのだろうということです。

そしてこの部分が「生みの悩み」にある朝鮮総督府の醜態に繋がるものです。

それまでの勇ましい言動はどこに行ったのかの様に怯え、資料や金銭を置いたまま持ち場を放棄してしまったり、目の前で法が犯されても司法関係者も何の抵抗も示さなかったというものです。

実際は電話も通じなくなるなか(木製の電柱は簡単に倒されてしまいました)他部所とも連携が取れず、疎開中の家族の安否確認にも気を取られで役人といえどもどうしようもなかったのです。
文章を書いた人は事後に話を聞いていきどおりを込めたためにあのようにきつくなったのだと思われます。

日頃から訓練を受けてもいない素人が、拳や角材を武器に目を血走らせて向ってくる暴徒にかなうはずもありませんでした。

pointそしてこの問題の最大の謎は、南大門付近にいた朝日新聞社や毎日新聞社、朝鮮に入り弁護業務や朝鮮人弁護士採用試験にも関わっていた日本人弁護士、京城大学を始めとした教育機関に派遣されていた大学教授などが京城の惨劇を知らないはずはないということです。

慰安婦問題の証拠を調べても見つからなかったと言われますが、隠す暇があるどころか日本人が襲われ、今や観光客でにぎわう南大門通りに遺体が転がっていたことはちょっと日本人側に話を聞けばわかる話ですし、何より自分たちの先輩や同僚がいたわけです、帰国後話を聞かなかったとは思えないということです。

仮に慰安婦に関与していたものがいたとして大暴動中に生き逃げのびられたのかという疑問もあります。日頃からそんなことをしていれば真っ先に血祭りにあげられていなければおかしすぎます。アメリカ軍が京城に入る約3日間の空白は日本人にとっては地獄だったのです。

それでいて朝日新聞社が慰安婦報道をする前後に弁護士や大学教授がソウルにわざわざ調べに行って、資料はありませんでしたが記憶は曖昧でも証言はもらえましたと言い出したのは何故なのかということです。

日本人の失われた命に対して、目の前で守れなかった女性の尊厳に対して何の良心の呵責かしゃくも彼らは感じていないのか、本当に誰からも話を聞いていないのかという最大の謎になります。

地図から見えることがある2(新聞・出版社)