日本人と朝鮮人(9)

五、ち上る二千四百まん

前進する朝鮮」5章は愛国(日本への忠誠)の精神あふれる朝鮮の現状に触れながら、朝鮮で行われていた愛国活動を取り上げていきます。

総力総進軍

愛国の坩堝るつぼ

近代戦では銃後じゅうごもまた戦場である。
そして半島はいまの戦場を守って遮二無二しゃにむに戦い抜く。鉄の團結だんけつ、盛り上る愛国心、二千四百まんの総力発揮、これが半島の全部である。しかし半島が本當ほんとうに内鮮の一體いったいにめざめ、澎湃ほうはいたる(勢いよく盛り上がっていく)愛国の赤誠せきせい(まごころ)を昇揚しょうようするにいたったのは支那事變しなじへん以来のことと言える。

事變は一撃にふる東亜とうあ粉砕ふんさいした。
うつつ寝の(ぼんやりしていた)半島にも新しい生命が吹きこまれ、大勢たいせい有無うむをいわさず半島をただ一つの目標と方向に決定づけた。
人々は始めて皇国民としての運命共同感を自覚し、その康福こうふくを皇国の躍進やくしんの中にはっきりと見出したのである。
しかしこれは決して偶然ではない。施政しせい四半世紀のたゆまざる統治の成果がび起こした一元いちげんの血の本能ともいうべきものであろう。

事変の勃発ぼっぱつと同時に駅々に繰りひろげられた涙ぐましい歓送風景、「萬歳々々ばんざいばんざい、兵隊さん元気で戦って下さい」と駅頭えきとう(駅の付近)に小旗こばた振る半島児童の純情に感激した出征勇士しゅっせいゆうしが「有難う、君達もしっかり勉強してりっぱな日本人になってくれ、戦地にはどうせ要らんお金だ、これで学用品でも買いたまえ」と財布をはたいて児童ににぎらせる。

これをいただいた子供は嬉しさに息をはづませて皇軍慰問金こうぐんいもんきんにと先生に差し出す、こういったはからずも描かれる内鮮一體の感激美談は随所ずいしょに見られて、これ等を皮切りにあるいは国防献金、或いは恤兵慰問じゅっぺいいもん、また銃後の勤労奉仕きんろうほうしに、いもわかきも、男も女も、半島はあげて愛国の坩堝るつぼと化したのであった。

支那事変は朝鮮総督府にとって思わぬ福産物をもたらしました。それが朝鮮人側からの積極的日本人化受け入れでした。

大正時代の皇帝を擁立ようりつし韓国を独立させようとした計画がとんしたのも、近代化を受け入れない、日本が気に入らない反日勢力による執拗しつような妨害のためでしたが、彼らの後ろには絶えず他の列強[アメリカとロシア(ソビエト)また国境を接する中国エリアからの干渉]の影がちらついていました。
それが一気にいい方向へ(満州国建国による対共産主義への守りの強化・支那事変による日本の対中侵攻による朝鮮半島への中国側の影響力排除)進みだしたので朝鮮総督府は「事変は一撃にふるい東亜を粉砕した」と言っているのです。

point駅の周囲で兵士に声をかけて半島の児童が振っていた小旗こばたというのは日の丸です。内地人(日本人)だけではなく朝鮮人の児童も積極的に振り出したのです。
出征しゅっせい兵士が内鮮人の児童に見送られているのは周囲の大人に強制されただけではありませんでした。
日本本土より前線へ送られるにあたっては一旦いったん龍山りゅうざんの軍令部に出頭、自分がどこに所属するのかを確認後、出撃まで各地の配属部隊で訓練を行い備えていました。
その徴兵された兵士達も遠い内地(日本本土)には妻と共に子供が待っていたり、幼い弟や妹を残しての渡鮮でしたので、日々の訓練後のわずかなひと時、軍施設の周囲で遊ぶ子供達に声をかけ、携行食けいこうしょくとして支給されていた金平糖こんぺいとう(小粒な砂糖菓子)を彼等にひと粒づつ与えながら、とりとめのない話しをして望郷ぼうきょうの念をいやしていたそうです。
そういう関係から次第に内鮮人の子供関係なく兵隊さんと親しく呼ばれるようになり、出撃時には多くの子供達にも見送られるようになっていったそうです。


国民総力運動

のもりあがる愛国心をガッシを受け、総督府の施政と表裏一體ひょうりいったいとなって、全半島の隅々まで烈々れつれつたる銃後奉仕の愛国運動を展開したのは、内地の隣組となりぐみにあたる愛国班あいこくはんを最下部組織とする国民総力運動である。

此の運動は半島二千四百萬こぞって皇国臣民としてのゆるぎなき精神的態勢の下に、内鮮一體、戮力協心りくりょくきょうしん(全員の力を合わせ任務にあたる)、以て半島に負荷せられた高度国防国家體制こうどこくぼうこっかたいせい確立の要請にこたえんとするもので、昭和十三年(1938年)七月七日、事變一週年を期して活動を開始した国民精神総動員運動をその前進とし、昭和十五年七月内地の大政翼賛運動たいせいよくさんうんどう相呼應あいこおうして発足した。

しかも翼賛運動と異なるところは半島現下の實情じつじょうかんがみて政治運動の性格を排除し、もっぱら銃後の国民意識を昂揚こうようする奉仕的實践じっせん運動たるにあって、愛国班の総数三十四萬、班員総数四百二十六萬に達しほとんど半島の全戸を包容ほうようする強力な愛国運動である。

そしてこれを統率する国民総力聯盟れんめいを中核として、軍事後援皇軍慰問いもんに、貯蓄の増加に、国債消化の運動に、あるいは廃品回収に、自給肥料の増産に、また新商業道徳の確立、或いは国民皆労こくみんかいろうの運動に雄雄おおしく(男らしく)も力強い活動を展開している。
ことに内地に率先實施そっせんじっしせられた正午の黙祷もくとうは、皇軍の武運長久ぶうんちょうきゅう戦歿英霊せんぼつえいれいに感謝の真心をこめて、田園に、街頭に、汽車や電車の中はもとより、お臺所だいどころの主婦、幼稚園に嬉戯きぎする(うれしそうに遊びたわむれる)可憐かれんな児童まで、正午の時報と同時に全鮮一斉にその場その場で敬虔けいけんいのりを捧げるのである。

昭和13年7月7日は七夕の短冊に必勝の願いを込めてということになります。いわゆる縁起を担いだものです。
大政翼賛運動と異なり政治運動の性格を無くしたというのは、朝鮮では最後まで日本の政治に対する参政権が与えられていませんので、下手に政治的要素を入れると朝鮮人のみならず、在朝鮮の日本人からも早期参政権獲得を求められたり、事変後鎮静化した対日独立運動、共産主義革命運動を再び活性化させかねないからでした。

国民総力運動基本組織図(朝鮮事情・昭和19年)より

赤い枠で囲った部分が愛国班になります。組織的には最下部にあたり図にあるように戸(家族)単位で指導・監視させる役割を担っていました。
こうして愛国活動の名の下に内鮮人の区別なく国の方針に従わせ、目に見えて悪化していく生活環境に対する不満の一つもらさせない体制が終戦まで続いたのです。

point組織図のトップは朝鮮総督府ですが、少し下がって連絡委員会とありそこに学識経験者中総督がくしきけいけんしゃちゅうそうとく委嘱者いしょくしゃ(仕事を任せた人)とあります。この学識経験者が京城大学に派遣されていた日本の大学教授になります。政策が朝鮮の法令に反していないか、朝鮮社会を過度に刺激するようなものではないか等アドバイザーの役割を担っていました。
その左隣に宣伝の部とありますが各新聞社に対して命令を出したり、各社代表と協議の下効果的な宣伝活動を行っていた部署になります。
慰安婦の強制連行」の真偽を政治活動にとらわれることでなく、公平中立に気をつけ調査検証をしたのならば、当然皆さんは新聞・テレビでこういう体制で朝鮮の戦争協力はなされていましたよ、組織にはどう知事・面長めんちょうゆう長の多数朝鮮人のトップも居て頻繁ひんぱんに連絡を取っていましたよと知らされていなければおかしいですがどうでしょうか?
強制連行が事実だとすると、この皇国臣民(天皇の民)として朝鮮半島2400万人が愛国運動を繰り広げていた中で、20万にもの朝鮮人女性が意思に反して連れ去られても誰も抗議の一つもしなかった、日本側も何の問題にもしなかったということになるのです。

志願兵にこぞ

内鮮一體の南統治不滅とうちふめつの金字塔である陸軍特別志願兵制度は事變じへんの翌年である昭和十三年の二月公布され同四月施行に関する諸手続きの発布を見た。

の制度は半島同胞はんとうどうほうに始めて兵役の義務を分擔ぶんたん(分担)せしめんとするもので、此のために朝鮮総督府陸軍兵志願者訓練所を設置して、軍隊生活に豫備よび的訓練を有しない朝鮮人青年が、入営にゅうえい後直ちに内地人壮丁そうてい(軍役ぐんえき者)として国家に御奉公なし得るだけの心身の基礎教育をほどこすこととなり、第一回先づ四百名の青年を募集したのである。

しかして此の制度の實施じっしが紙上に発表せらるや萬歳ばんざいこえは全半島をゆるがし、全鮮一斉に感謝祝賀の行事がもよおされ、未だ細則さいそくの発表に先立って総督府、朝鮮軍司令部、あるいは最寄りの憲兵隊けんぺいたい、警察署等には採用方を願出る者続出し、血書けっしょ嘆願書たんがんしょも多数提出されて一死報国いっしほうこく丹心たんしん(まごころ)を披瀝ひれきした。

同年度の應募者おうぼしゃは四百名の募集にたいし二千九百四十六名、翌十四年度は六百名に對し一萬二千三百四十八名、十五年度は採用人員を一挙三千名に擴充かくじゅうして旺盛おうせいな愛国の赤誠せきせい(まごころ)に應えたが、熱誠ねっせいは年と共に加わって八萬四千四百餘名、更に十六年度には十四萬四千七百名を数えるにいたった。

本十七年度は新に内地在住の半島青年の與望ようぼうに應えて大阪いち詮衡せんこう(採用場所)に加えたのであるが、志願者は更に急増して二十五萬一千五百九十四名に達し、此の中には名門の子弟や相當そうとう知識層の青年も應募して、定員の六十餘倍という物凄い殺到振さっとうぶりを示している。

そして流石これだけ多数の志願者の中から詮衡せんこうされ、更に半年内外の基礎訓練を経て入営するだけあって、報国の至誠しせい、心身の鍛錬、内地人壮丁そうていしていささかもおとらず、第一回志願兵の中からはすでに記したごと靖国やすくにの神まつらるる、李仁錫、李亨洙の二英霊えいれいを出し、後続志願兵はこれを●鑑と仰いで日夜精励せいれいを続けている。

今後更に第三の、第四の、更に幾百千の李仁錫が出、李亨洙が生れるであろう。そして半島は此のしかばねの光栄の中からたくましい日本的成長をとげるのである。なお此の志願兵は全部が訓練所終了と共に直ちに入営するのではなく、詮衡せんこうの結果現役にふくするものと第一補充兵役に編入されるものとがあるが、そのいずれもが家郷かきょう(ふるさと)にあっては志願兵と選ばれたるほこりのもとに職務に励精れいせいし、新しき指導者として郷党(ふるさとの人々)の愛敬あいきょう(愛され、うやまわれる)を一身にあつめつつある。

陸軍特別志願兵制度は新聞紙上で発表されると朝鮮人の若者に熱烈な歓迎をもって迎え入れられたのは事実です。結果、一人でも多くの勇猛な兵士が欲しい日本は更に採用枠を増やしていき、朝鮮人日本兵が続々と誕生したのです。
pointこの志願兵制度の裏には東京で練られていた新韓国建国へ向けてのテストの意味もありました。
日本は大東亜共栄圏構想実現のため、韓国となった際には自分の国は自分(韓国人)で守らせ、朝鮮の20師団管区より東南アジア(当時、将来的にインドまで大陸鉄道をつなぐ計画が存在)に近い場所に日本軍の新しい拠点を造る腹積はらづもりだったのです。
そういうことから、今まで近代戦を経験したことのない朝鮮人の若者が将来の兵役に耐えられるのかを実際に日本軍に加えてチェックを始めたのです。

現役の兵隊にならなかった志願兵が故郷で職務にはげんだとあるのは、元々の仕事に戻って頑張ったというだけではありませんでした。
志願兵に合格したということは日本語が出来るだけでなく、日本的価値観が共有できる有益な人材ですから、先にあげた「国民総力運動」の組織に加えて、地元の啓蒙けいもう活動にも励んでもらっていたのです。このことが終戦以降、南北反日国家誕生からの彼らに対する激しい迫害につながり、逃げ道の一つが日本への密航となったのです。


氏制度の創設

氏制度の創設は紀元きげん二千六百年(西暦1940年・昭和15年)の紀元節を期して行われた。
朝鮮の姓は総戸数四百餘萬よまんたいしてわずか四百九十餘にすぎず、しかもその半数は永年えいねんの中に消滅し去って現在使用されるものはやっと二百五十あまり、中でも大姓であるきん(キム)は全體ぜんたいの二割一分、(イ)は一割五分近くを占め、姓名による個人識別の機能を十分にはたがたうらみ(不満)があるのみならず、内鮮一體化の徹底にともなって、内地式の͡稱呼しょうこ(呼び名)を希望する者もようやく多きを加うるにいたったので、ここに大英断だいえいだんもって新たに氏名の設定を許可されることとなったのである。

往古おうこ(大昔)皇室にかせられては韓土(朝鮮半島)よりの帰化人にたいして氏をたまい、これ等が嵯峨帝(嵯峨天皇さがてんのう)の御字おじすでに姓の三分の一近くを占め、今日こんにち形容ともに大和民族に薫化くんか融合ゆうごうして(大和民族に影響を受け、け込んで)その後裔こうえい(子孫)たるあとをとどめないことは既述きじゅつの通りであるが、今回の創氏制度も半島人に對して新たに内地人式氏名の設定を許し、實施じっしの二月十一日から六ケ月を届出期間としそれ以後變更へんこう許可を要することとした。

本制度は志願兵制度並に教育令の改正と共に南統治にける画期的施策の一つをなすものであって、これまた實施と同時に半島同胞に異常なる歓喜と感激をもって迎えられ、自分の本籍あるいは出身地にちなむもの、祖先の由緒に因むもの、或いは尊敬する偉人の氏を頂戴ちょうだいするもの等千差萬様、内地からは姓名判断の本が飛ぶ様な売行うれゆきしめすという有様で、十六年末現在の設定戸数三百二十二萬六百九十三戸、推定實在戸数の八割一分五りんに達した。

中でも金田、金本、平沼、国本、伊藤、木村、高山、金光等の氏名最も多く、南、柳、桂等はそのまま一字の氏として届出たが、今までの李さんは国本さんとなり、白さんは白川さん、或いは白井さんとなり、青松さん、李家リノイエさん、孫田さんという様な新しい氏もどしどし生れる。

家々には郵便配達が迷わない様に、一つには自分で自分の氏名を忘れない様に、新名と舊名きゅうめい(旧名)の標札が並べてかけられるなど微笑ましい風景を描き出したのである。

嵯峨天皇の頃(西暦800年位)には朝鮮半島から日本に移り住んだ帰化人が多数日本名を名乗って生活していて、昭和の今日ではすっかり溶け込んで誰が元朝鮮人だかわからなくなったと、ここでも内鮮人の血縁を出しています。
創氏改名は歴史を参考に、朝鮮総督府も日本名にしたい朝鮮人には許可したという利便性向上策、それだけのことです。
姓名の個人識別の機能が十分に出来ていないというのは、「外で仕事相手の金さんに金さんと声をかけたら、周囲の人が自分のことと思って一斉にこっちを見て気まずくなった」「役所で名を呼んだら複数の人が一斉に窓口に来た」という様に同姓同名の人が多く日常生活に問題が出ていたということです。

朝鮮年鑑(昭和20年版)より

朝鮮年鑑の人名録(朝鮮の内鮮人有力者名簿)より元の朝鮮名の1割5分を占めていた(イ)が含まれる(り)の項目からさんと李家りのいえさんと力武りきたけさんを例に挙げてみます。

李さんと李家さんは共に京畿道けいきどう出身ですが、李さんは男爵だんしゃく爵位しゃくいを持ち地主とあります。これは日本に例えると先祖代々の東京の一等地の大地主であり爵位が与えられるほどの地元有力者になります。当然家柄に誇りを持っているので氏も名もそのまま創氏改名をしていません。制度上何の問題もないので朝鮮総督府もそのまま氏名を載せています。

対して李家さんは優秀であっても有力な家ではなかったのか、積極的に日本化を受け入れていた進歩人だったのでしょう、元の李から李家に変えたので元の名を表す(李)も新名の下に表記されています。

力武さんは佐賀出身とあるので在朝鮮の内地人(日本人)と分かります。創氏改名の必要が最初からないのでそのままの表記になっています。

昭和20年(1945年)戦争終了の年に出されたものです。「前進する朝鮮」氏制度の創設の文章にあるように日本側は利便性向上のために許可したものなので、分かりやすいように創氏改名した人(大多数は1940年実施)の旧名も表記しているのです。
この名簿に載っている人達は戦時下の朝鮮の上層階級にあたるのですから、日本が改名を強制していたならば率先して変わっているはずですが、実際は創氏も改名もしていない人が大勢いたということです。

現在韓国が主張しているような朝鮮人のアイデンティティー(主体性)を奪うつもりだったわけではありませんでした。

point当時現地に人を置いて居た日本の新聞社や教育機関に教職員を派遣していた大学の教授までもが、こういう資料を使った説明をわざとしないのです。
そうすることによって韓国の言い分が全て正しいように錯覚させるのです。
それで、戦後生れの大多数の日本人が併合時代の正確な情報をどうやって得られるのでしょうか。国民として日本政府が韓国に反証する内容が正しいものなのかどうか判断できるのでしょうか。
個人の歴史認識は国が勝手に決められないように、一部のメディアや学者の望むような歴史認識になるように、事実を伏せた形で誘導されて作られるものではないはずです。


勤労報国きんろうほうこく

の様に、何も一體感いったいかんの喜びの中に立上る半島の愛国心の流露りゅうろ(表に出た感情)は、これを一つ一つとりあげては数えつくせるものでもないが、戦地のことは主に内地の同胞どうほうがやって下さるのだから、我々は銃後の戦場をしっかり守らねばならないと、大陸兵站へいたん基地、特に労務の給源地としての自覚に奮起ふんきし、鮮内はもとより内地、樺太カラフト、南洋諸島にまで勇躍ゆうやく進出して産業戦線に挺身ていしんする同胞の姿は涙ぐましいまでに尊いものがある。

またの勤労報国の自覚は、昭和十四年以降盛夏せいかの満州国にたいする建設勤労奉仕隊きんろうほうしたいの派遣となり、翌十五年からは内地應召おうしょう農家(働き手を兵役でとられた農家)へ農繁期のうはんきを選んで勤労奉国隊がくり出すなど、聖戦下に勤労半島の面目を遺憾なく昂揚こうよう(高め強める)している。

満州建設勤労奉仕隊は青年隊、学生隊の両隊に分れ、青年隊は主にくわ鶴嘴つるはしで、学生隊は習い覚えた医療、鉱山技術等の特技で建設奉仕を行うのであるが、真摯しんし敢闘かんとう(まじめに精一杯せいいっぱい戦う)、学生隊の中には現地でたおれて死の帰還をした者もある。

また農村青年勤労報国隊は十五年には佐賀、熊本、宮崎、大分の九州四県に百五十名、十六年には山口、広島、岡山、島根の中国各県に三百名が派遣され、働き手の應召おうしょうした農繁期の農家に身代りとなって働き、人々の深い感謝を受け、また数多い内鮮一體の美談を生み出したのであった。

これが挺身活動ていしんかつどうというものです。勤労奉仕きんろうほうしや挺身報国活動、挺身労働、など人によって呼び名も様々ですが、基本は割り当てが先に挙げた「愛国班」から廻ってきたり、特技をかして志願する形で参加していました。

同時代を生きた引き揚げ日本人が顔を合わせた際は、話の流れで「あなた挺身は?」「君は勤労いったの?」という感じでたずね、「挺身は親の手伝いがあって免除だった」「自分は勤労は鉱山行きだったよ」「大変だったでしょう私は勤労奉仕は軍需工場で立ち仕事だったけど、室内だったからよかった」というように話が進んでいったものでした。正式名称など時間と共に曖昧あいまいになり呼び名はバラバラでも同じ経験をしているので話は問題なく通じていました。
これも内鮮一体方針で行われたものですので、日本人、朝鮮人区別なく、後期には小学生に対しても出来る範囲での勤労奉仕(私の父は戦闘帽のあごひも作りだったそうです)の割り当てがありました。

point自発的と書いてはあっても断れる環境にない強制でしたが、所謂いわゆるシベリア捕虜収容所やアウシュビッツのような過酷さはありませんでした。日本人朝鮮人同等の朝鮮内においては一緒に働くので食事を出さないとか、休みがまったくないというものではありませんでした。
問題は日本国内での勤労奉仕が、ひどく朝鮮人の誇りを傷つけるものがあったそうです。
これは雇用側の本土日本人が内鮮一体を理解していなかったことで(そもそも、一度たりとも本土では朝鮮人と日本人は血縁関係だなど教育していないのです)安い外国人労働者扱いをしたこと。言葉遣いも乱暴で、同じ日本人に対して使うような言葉ではなかったそうです。
食べ物に関しても当時の朝鮮半島の労働者は、昼時になると炊き立てのご飯(米100%ではなくあわやコーリャンが混ぜてあるもの)と寸胴鍋ずんどうなべで煮込んだスープで食事をするのが日常の光景だったそうですが、これは朝鮮社会においてはいかなる階級の人でも、お客をもてなすときは炊き立てのごはんをだして精一杯のもてなしの姿勢をみせるものだったそうで、めし(炊いてから時間がたち冷えてしまったご飯)は基本口にしなかったそうです。
それが、日本では当たり前のように冷や飯を出され早食いを強要されるので、「自分達をバカにしている」「朝鮮の日本人の言動(我等われらは一つ)は嘘なのか」とうらみと不信感を与えることになっていました。
朝鮮総督府は、美談を生み出すどころか本土から戻った朝鮮人の中から不満の声が出ていることも知っていましたが有効な手を打てませんでした。それがのちに大きな悲劇を生むことになるとは知らずに・・・