日本人と朝鮮人(10)

愛国赤誠あいこくせきせい発露はつろ

献金の怒涛どとう

支那事變勃発しなじへんぼっぱつ以来国防献金こくぼうけんきん恤兵金じゅっぺいきん(軍や兵士への寄付金)、あるいは飛行機、高射砲こうしゃほう(対空砲)その他の国防資材献納けんのうにあらわされた半島の赤誠せきせい(まごころ)は、二月末日現在で次表のごとく陸海ごうして三千三十七萬餘円まんよえんの巨額に達し、愛国機の献納せらるるものも三百を突破するにいたった。

これを大東亜戦争の勃発ぼっぱつ前と以後とに分けて表示すれば

陸軍(朝鮮軍愛国部)

期間 国防献金 恤兵金 飛行機
昭和12年7日~16年12月7日 9,701,762 1,305,956 61
昭和16年12月8日~17年2月28日 10,311,104 516,432 180
20,012,866 1,822,388 241

海軍(京城在勤けいじょうざいきん海軍武官府)

期間 国防献金 恤兵金 飛行機
昭和12年7日~16年12月7日 1,297,902 51,395 23
昭和16年12月8日~17年2月28日 6,917,917 269,539 44
8,215,819 320,934 67
陸海合計 28,228,685 2,143,322 308

すなわち大東亜戦争勃発以降にける赤誠せきせい(まごころ)の献金けんきんは、の表に見られるごとわすか八十餘日よにちにして陸海軍ともに支那事變しなじへん四年有半の総額を凌駕りょうがし、事變中の一日平均献金額七千六百五十八円にたいし、大東亜戦後はたちまち二十一萬七千餘円と物凄く跳躍ちょうやく、米英撃滅の大征戦だいせいせんあがる国民の感激を如實にょじつに反映している。

また事變以来の慰問袋いもんぶくろは累計五百萬乃至ないし一千萬袋に上るものを推定され。戦陣に贈る一服いっぷく慰安いあん皇軍慰問煙草こうぐんいもんたばこも、十六年末までに七百七十六萬九千箱、金額にして約百萬円あまりに達した。
これ等すべての総計は一人あたりの醵出額きょしゅつがくを見る場合、内地に比較してもとより多しとは言い難いが、それ等はことごとく貧者の一燈いっとうにもたとうべき赤誠せきせいと美談の集積であって自から胸うたれるものがある。

次に大東亜戦争勃発後ぼっぱつご、本年二月四日付の京城日報けいじょうにっぽうに掲載された一美談を抜萃ばっすいして見よう。

『チャラリチャラリと飴売あめうはさみに献金の赤誠をかたむけ、老いの身にはるばる百里ひゃくり(約400キロ)のみちを飴売りのつえたくして、蔚山うるさんから京城までやっと辿たどりついた二日午後、足に食いこむ草鞋わらじをひきずりひきずり倭城臺わじょうだいの海軍武官府を訪れ、白銅貨千八百五十枚を献金したお爺さんがいる。

慶南けいなん蔚山郡方魚津ゆう方魚里の梁基祚さんは大東亜戦におけける海軍の

赫々かくかくたる大戦果にいたく感激し、何とかこの感激を形に現わしたいと思ったが、その日暮らしの貧農ひんのうの身に献金すべき手だてとてなく、毎日悶悶もんもんの日を送っていたが、ふと農閑期のうかんきを利用してあめを売って献金することを考え、一月の二日に蔚山うるさんを発った梁さんは京城まで百里の道を、子供たちに飴を売りながらちょうど一箇月目の二日午後京城に辿たどりついたのだった。

苦難に満ちた旅だった。雪に降り込められ、吹きすさぶ風に骨まで凍り、ある夜は見知らぬ家の軒下のきしたを宿とし、またある晩は寺のえんの下に寒さに寝つかれぬ夜を明かしたこともたびたびであった。

しかし梁さんはちりがつもる様に少しづつたまって行く一銭銅貨をてのひらに数えながら、凍りつくような星空をあおいで太平洋を制圧する無敵海軍の幻をいくたびも描いた。
武官府を訪れた梁さんの泥にまみれた地下足袋じかたびは、一箇月間いっかげつかんの血のにじむような忍苦の影を宿していた。
梁さんは不自由な国語(日本語)で言葉すくなに次の様に語った。

ほんとに少なくてすまないんですが、これも何かのお役にたてばと思って持ってあがりました。皇軍こうぐんの御苦労を想えば私達はどんなことをしたって感謝しつくせません」

point終戦まで朝鮮で生活していた日本人の言っていた「朝鮮の人達に申し訳ないことをした」とは、「日本軍が朝鮮の人々を殺した」という朝日新聞社や野党を中心に政治目的の為なら日本の歴史すらためらわずに書き換える人達の言っているようなことではありません。
梁さんの様に日本の大義たいぎを信じ内地人同様尽くして下さった方達への贖罪しょくざいの気持ちです。この人達を終戦で裏切る形になってしまった、いったいあのあと韓国、北朝鮮という国でどんな過酷かこくな生活を強いられたのだろうかというものです。
反日国家の言い分を、それを利用する日本人の言い分を充分に調査・議論をせずに受け入れるということは、日本と共に生き、そして亡くなっていった市井しせいの朝鮮人への追悼すら不可能にするのです。

朝鮮人の飴売あめう

上の写真が梁さんの行った飴売りの姿です。はさみをチャラリチャラリとは、金属製の鋏を鳴らし客を呼び、求めに応じて鋏で飴を切って売っていた所からです。
併合へいごうリヤカーが朝鮮でも普及すると、それにとうや竹のかごに飴を載せて売り歩くあたらしい形も出ました。
戦後の日本で創業したての製菓業のオーナー夫妻が、リヤカーを使ってお菓子を売って歩いたというのもここから来ています。

婦人の覚醒かくせい

皇軍感謝の赤誠せきせいは国防献金や恤兵金じゅっぺいきんにばかり見られるのではない。
金簪かんざし(女性の髪につけるアクセサリー)や真鍮食器しんちゅうしょっき献納けんのう運動もその現れであって、愛国金叙會きんじょかいは支那事變勃発じへんぼっぱつの翌八月在京城けいじょうの半島上流婦人によって結成された。

その目的は各自の愛蔵あいぞうする金簪を国家に献納して銃後の赤誠を現わそうとするにあったのであるが、これまでに家庭に閉塞へいそくして社會しゃかいの動きとは全く没交渉ぼつこうしょう、無関心で生きて来た半島婦人層覚醒かくせいの大きな警鐘となった。

また真鍮食器の献納もの事變を契機として何時いつからともなく提唱され、茶椀から丼、皿、はしさじいたるまで、半島の家庭で従来愛用された真鍮製の食器類はわれも我も持ち出されて、今日の金属類回収運動の先駆せんくをなしたのである。

朝鮮は日本と異なり日常の食器は大半が金属製でした。それを自発的に出してもらって武器や弾薬の製造にてていたのです。
日本としては、これを機に朝鮮の日本化の一環として茶碗や皿も陶磁器を使えばいい程度に考えていたのでしょうが、朝鮮人社会にとっては幼いころから使い慣れた食器や貴重な伝統文化の細工物を失っていくことになったのです。

上の写真が金属食器の商人です。商業が未発達な朝鮮では併合まで、常設店舗によるあきないよりこういった定期・臨時に立ついちで行われ、物々交換で取引されることが普通でした。下の写真が金属回収風景です。
左、パゴダ公園の柵回収。
右、食器献納・金属類回収風景。
本土と同じ様にと日本人児童の尋常じんじょう小学校に設置されていた二宮尊徳にのみやそんとく像、乃木のぎ将軍像から公園の遊具、貴金属製品まで朝鮮半島でも数多くの物が徴収されました。


貯蓄報国ちょちくほうこく赤誠せきせい

ふでを転じてその熱意を貯蓄増加の状況に見ても、半島に貯蓄奨励ちょちくしょうれい運動の展開されたのは事變じへんの翌十三年からで、同年は二億、翌十四年は三億、十五年は五億、十六年度には六億を目標としたが、事變勃発の十二年以降十六年末までの純増額は次のごとく十六億八千萬円に達し豫期よき以上の成果をあげた。

これは全国貯蓄の五%未満、わずかに名古屋市一市程度の負担にすぎないが、半島の富力の既往きおう(すぎさった昔)かんがみるときに格段の飛躍といわねばならない。

昭和12年度(1937年) 126,286
昭和13年度(目標2倍) 269,979
昭和14年度(目標3倍) 390,021
昭和15年度(目標5倍) 576,339
昭和16年度(目標6倍) 317,426
1,680,051

さらに大東亜戦争の勃発ぼっぱつの盛りあがる皇民意識の最後の仕上げとなった。米国人によって創立され数十年の歴史を有つゼブランス医専が、創立者の銅像をこぼち(こわす)、校名も敢然かんぜん(思い切って)あさひ医学専門学校と改稱かいしょうしたのなどその好い例であり、大東亜戦直前、愛国の半島人有識者によって組織された臨戦報国團りんせんほうこくだんは、全鮮の半島人に呼びかけて米英撃滅べいえいげきめつ愛国奉仕あいこくほうし華々はなばなしい實践運動じっせんうんどうを展開している。

また将来一層半島の青年をして国家の御用に立たせるための基礎資料たらしむべく、三月上旬をして施行しこうされた朝鮮青年體力検査たいりょくけんさには、満十八、九歳の半島人青年はことごと欣然きんぜん(よろこんで)として指定された検査場に参集、てつの體力、鐵の精神、何時なんどきたりともめいおうじて大君たいくんささたてまつらんの固い覚悟を示したのであった。

併合前の旧韓国時代、可能な限り行われた実態調査の報告を受けていた伊藤博文は、明治維新前の長州藩の予算程度日本の本州並の広さの韓国の運営がなされていると、事態の深刻さを述べていました。それからすると、併合から30年程度で日本の経済都市第3位の名古屋市までの負担が出来る様になったことは驚くべき経済成長でした。

大正12年から朝鮮の医療人育成を担っていたゼブランス医学専門学校も昭和16年に旭医専へと改称しました。写真にあるように指定校とはいえ、公的資格を取れなければ医師にも看護師にもなれません。自発的というより「変えないと分るよね?」というプレッシャーがあったのは否めません。いわゆる「忖度そんたく」というものです。

point将来一層半島の青年をして国家の御用とは、日本本土と同じ徴兵制度の導入のことです。将来、自分の国を自分で護らせるという従来の計画だけでなく、泥沼化した大東亜戦争(太平洋戦争)の難局を乗り切るべく体力検査を始めたということです。
これによってのちのち適性に応じての兵役(体力がおとる人は行軍のスピードを落とすため兵士にはなれませんでした)を行う予定でしたが、準備だけで正規運用はされることなく終戦を迎えました。

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