日本人と朝鮮人(13)

七、朝鮮の自然と生活

「前進する朝鮮」7章は朝鮮の自然と文化に触れます。ここでは前半の自然は省き、文化から紹介します。

生活、習俗しゅうぞく

習俗の變化へんか

わずか三十年あまりの歳月は朝鮮の生活習俗の上にもいちじるしい變化をもたらした。
一つには東西を通じて最も激動的な時代でもあったのであろうが、急激な西欧文明の浸潤しんじゅん(しみこみ広がる)と、より急速な日本化への行程は、衣食住はもとより禮式作法れいしきさほう、趣味娯楽の領域にまで、そのあるものは全く昔日せきじつの面影をとどめないまでに激しい變貌へんぼうを示したのである。

がいして寒国かんこくであるから肉體的にくたいてきには別段印度インドなどの様に早熟そうじゅくというわけでもないにかかわらず、良家のしてい弟であれば十二三(12、3歳)にもなればもうやいのやいので妻帯さいたい(結婚)をさせられる。
それも妻君の方がきまって四つや五つは年上で、したがって當初とうしょの間は夫があまり子供すぎて新婚の喜びなど全然なく、妻が内房(女性の部屋・寝室)で待ちこがれている時に、夫の方は鼻をたらして表でコマなどまわして遊んでいた、そして夫がようやく成年に達する頃には妻はや色も香も失せて厄介者扱やっかいものあつかいにされるというような極端な早婚そうこんへい‐朝鮮ではのためじつに多くの家庭悲劇を生んだが、それでも永い間平然として此の馬鹿げた弊習へいしゅう(わるい習慣)を繰返して来た‐は全く跡を絶ち、また婦人は内房に閉じこもって絶対に男性と接せず、もし夫の不在中に訪問者でもあると、部屋の奥から召使でなければ應對(応対)せぬ。
たとえ召使がいない場合でもやはりいるものとして、これにつたえる様な言葉遣いで受け答えをしなければならないといった不便極まる良習も、今日ではほとんど改められて、どしどし街頭に出で、農村では甲斐々々かいがいしい勤労姿も見られるようになった。

事實じじつこれまでの朝鮮では、餘程よほど貧乏人の妻君さいくん(他の人の妻、奥さん)でもない限り女は外にも出ず、魚一匹買うにしても、反物たんもの一反買うにしても、買物などは男のすることであって女は何もしないものと相場がきまっていたのである。

また小さなことかも知れないが、目上の人の前では如何いかにすすめられても酒ものまぬ。煙草も吸えぬ。眼鏡をかけて年長者にたいするのは失禮しつれいである。
こういった八釜やかましい禮儀作法れいぎさほうもいまではたいしてかく言われなくなった。

朝鮮は禮儀れいぎの国と言われる位で、繁文縟禮はんぶんじょくれい(規則、礼儀作法が細かくうるさいこと)も多いにせよ、中には一概いちがい虚禮虚式きょれいきょしき(形だけの礼儀作法)と言えないものもあったのであるが、文明と呼ばれる性急な怪物は何時の間にか生活の方式を出来るだけ簡便に變色へんしょくさせてしまったのである。

まさか、終戦から40年以上もたったのち自分たちが性犯罪者のレッテル(慰安婦問題)を同じ日本人に貼られるとは思わなかったでしょうが、朝鮮社会の女性に対する扱いを変えていったのは日本が行った近代化でした。

併合前より伊藤博文に再三注意されていたことですので、朝鮮人社会の礼儀作法に対しては日本側は最大敬意、注意を払っていました。朝鮮社会の有力者一人に礼をしっした態度を取れば、一族全体を敵に回すことになるのです。短期間で朝鮮の近代化を進めたい日本政府にとっても、朝鮮半島で朝鮮人に囲まれて生活する日本人にとっても気をつけて当然のことでした。

pointここが、朝鮮で暮らしていた日本人日本本土のことしか知らない日本人決定的な認識の差でもあり、近年でも無責任な日本人が「日本では戦中も戦後も激しく朝鮮人を差別していた、またはそれを見た。だから朝鮮半島の日本人も酷いことをしていたにちがいない」という思い込みだけで戦後の韓国の反日話を真に受けた発言を繰り返して引き揚げ日本人をうんざりさせていました

 

両班(ヤンバン)の一家、「前進する朝鮮」に書かれている表に出ることのない女性とはこのような特権階級層の女性のことです。併合から大正時代にはこのような旧習を重んじた朝鮮の人々が数多くいました。

下は両班の外出時の写真です。かなりのお供の人数ですが、両班や王族が暮らす京城けいじょうの日本人はトラブルを避けるため、このような列をうっかりさえぎらぬように気を付けなければなりませんでした。
このような光景が昭和に入り、支那事変からの急激な日本化によって大きく変わっていき現在のソウルへの流れになって行ったのです。




朝鮮の服装

朝鮮の着物はじつに美しい。
それは日本のキモノのごとき色彩と模様の美ではなくて、最も素樸そぼくな線の美である。それは和服に比べてはるかに活動的であり、ことに洋服の型に示唆しさされた新しい女性の朝鮮服の清楚せいそな美しさは世界で一番といっても良いと思う。

しかしの朝鮮服はわれわれにとって最も原始的なものであり、日本の着物が現在のような形となったのは何時いつからの事か知らないが、神代かみよから、さらに千年以上もの間、わが日本の服装は現在の朝鮮服と類型を示している。
つまり歴史絵圖えずなどををみていると、服装の上からも内鮮が決して異る民族でないことを感じるのであって、ふとしたときあの悠長ゆうちょうな白衣の中に遠い祖先のにおいが漂っているように思われることもある。

今日では朝鮮の人々も洋服を着るし、また稀には和服にくつろぐ人も見られる。
洋服は絶対に便利であって勤労人の服装として何の註釈ちゅうしゃくも要らないが、あまり便利でもない和服が大いにもちいられんとするのは、気障キザでもてらい(ひけらかし)でもなく、やはり皇国臣民化こうこくしんみんかの一つの姿向と見ることが出来よう。

多くの人々の中には形式の上からもまったき(完全に)一つになりきろうと努力している人もあるのである。
なお履物はきものも朝鮮在来の草鞋わらじや木靴は姿を消し、洋靴、ゴム靴と並んで日本下駄げたがだんだん羽振はぶりをきかしている。


小さい写真ですが、釜山ー京城ー新京を結んだ急行「ひかり」(蒸気機関車)に乗る朝鮮人女性の民族衣装がスッキリとした直線のフォルムなのがわかります。
「あまり便利でもない和服」と言っているように日本化を進めたといっても、本質は西洋文明に先に触れ、それに慣れ染まった日本風の近代化でした。

point朝鮮の服装を読まれると分かるように、日本は併合時において朝鮮文化を日本文化より下に見たり、それを捨てさせるために強制的に政策を押し付けていた訳ではありませんでした。考古学を持ち込み朝鮮文化の保存に動いたのも日本です。

写真左が朝鮮の上流家庭の結婚式、右が既婚の婦人の外出着になります。肌を他人に見せないようにしているのが分かります。ここからわずか30年程度でこの階層の女性達も洋服を着て、積極的に社会活動に関わるようになったのです。


温突オンドル唐辛子とうがらし

朝鮮の家屋は全部温突であって、家具や調度には相當そうとう洋風や日本式が加味されたにしても、建物自體じたいにはいささかの變化へんかもない。
朝鮮は寒く、建物は何といっても冬の防寒を主にしてつくられるのである。

それは床を土で固め、畳の代わりに油紙を数貼かずばりりし、下から火をくと部屋全體に温まる。冬の温かさはじつ満點まんてんであって、今日では内地式建築にも多くこれが取入れられるようになった。
そしてこの温突オンドルの中で、朝から晩まで、一年中、あの赤い唐辛子の入った料理を食うのであって、秋から冬にかけて農家の屋根一ぱいに赤いものがひろげて干してあるのは、その一年分の唐辛子なのである。

朝鮮の料理は唐辛子を抜いては語ることが出来ない。
朝鮮の人は魚よりも野菜と肉を好み特に牛の肋骨ろっこつについた肉を骨ぐるみ適當てきとうの大きさに切った焼肉はカルビと呼ばれて内地(日本人)の人にも大變賞味され、また内地の寄せ鍋に似た神仙爐しんせんろもうまいものの一つである。

支那料理(中華料理)は味、日本料理は香、朝鮮料理は色といわれるが、大きなぜんの上に磨きあげた大小とりどりの真鍮しんちゅうの食器、そして野菜や肉がすべて赤い唐辛子であしらって並べられたさまは仲々豪華である。

朝鮮の漬物はキムチといい、主として白菜漬けであるが、これに肉、魚、海藻、銀杏ぎんなん、栗、にんにく、生薑しょうが(生姜)、昆布、せり等を一緒につけこみ、唐辛子は勿論もちろんいわでものことであって、これ等山海諸種の味が渾然こんぜん一つになって一寸類ちょっとるいのない豪華な味覚をほこっている。

そして半島人があまりちょうチフスや赤痢せきりをやらないのはの唐辛子のおかげであると信ぜられている。

キムチは朝鮮人の各家庭で漬け込むものに違いがあり、秘伝のレシピのようなものだったそうです。これを適当に切った野菜にのせたり、肉に添えたりして家庭の常備食材として使用していました。
当時海産物は今の常識では考えられない位豊富で安かったので、かにやえび、ほたてやあわびもキムチの素材として使われていました。
日本人の中にも親しくなった朝鮮人の婦人から教わったり、今でいう料理教室のようなもので習い漬けだすほどとりこになっていました。

諺文おんもん(ハングル)

これ等家屋や服装、飲食物等は上古にはもともと同じだったのが、永い間には気候その他の影響からそれぞれに適應てきおうした變化へんかをとげたものと考えられ、どこかに共通したものが感じられるが、ただ文字だけは全く相互に影響しあうことなく朝鮮は朝鮮独自の発達をとげた。

我国に文字の渡来したのは應神天皇の御代みよ百済くだらの博士王仁わに論語ろんご及び千字文せんじもんけんじたに始まることは正史せいしに記されてある通りで、主として用いられたのが漢字であることは内鮮何ないせんいずれもかわりはないが、朝鮮では李朝りちょう世宗せそう二十八年、今からおよそ五百年前に訓民正音くんみんせいおんぞく諺文おんもんといわれる文字が制定され、我が国にける假名文字かなもじの役割を果たして来た。

これは十一個の母音と、十四個の子音、総計わずか二十五個の簡単な符號ふごうからなり、の符號を二個以上様々に組合わすことによって数多い音を現す文字が出来上る。そのてんアルファベットと同巧どうこうであるが、諺文では二個以上が組み合わされて始めて文字であって、一つ一つのものは全くの符號にすぎないのである。
そしてこれによって表わし得る音の数はじつに多様で、したがって朝鮮の人は内地人に比べて遥かに容易に外国語に熟達することが出来るのである。

文字が日本、朝鮮共に中国から伝来したものを認めた上で諺文の成り立ちを説明しています。大東亜戦争をしていたからといって日本は文化の伝来を否定したり他民族の文化を否定してはいません。 
先に説明した通り、小学校の更なる普及とかかる経費節減のために朝鮮語教育や諺文教育は義務教育から外されただけです。ですから大戦中も朝鮮人の間では普通に朝鮮語のやり取りは行われていました。話していたら捕まるとかそういう話ではありませんでした。
もちろん教育機会を奪うことは許されることではありませんので、日韓基本条約締結時ていけつじ戦後の日本人に対する朝鮮人による大量殺戮たいりょうさつりくを帳消しにしてもなお巨額の費用を韓国側に渡したのです。

point現代のハリウッドやアメリカのドラマで日本人役を韓国系の役者が演じることが多いですが、彼らの日本人以上の言語取得能力(日本語だけでなく英語に対しても)はすでに朝鮮の日本人は評価していたのです。


娯楽ごらく、芸術

朝鮮の民衆娯楽にも碁もあれば将棋もある。いずれもその方法は内地のそれと大して變わらず、将棋の方がより大衆的なことも内鮮同じであって、夏の日中などけやきえのき木陰こかげむしろき、大勢の彌次馬やじうまがたかって「王手おうて々々おうて」と騒いでいる所など、内地の夕涼ゆうすずみみにもよく見られる風景である。

女の子はもっぱら跳び板かぶらんこにきょうじ五月五日の端午の節句は婦女子のぶらんこデーとして、長さ四五メートルもあるぶらんこをつくって盛大な大かいもよおされたものであった。

朝鮮では文字や学問はほとん両班ヤンバンといわれる良家の占有物であり、それも儒教じゅきょうの影響でこちこちに固まっていたので、特に傑出けっしゅつした文学作品の生まれ出たものを見ない。その中では春香傳しゅんこうでん沈清傳しんせいでん等が最も人口に膾炙かいしゃし(広く知られている)、中でも春香傳は哀戀あいれん(悲しい恋もの語り)の節婦せっぷ(みさおを守る女性)美談としての忠臣蔵にもせられる程大衆に親しまれている。

音楽もあまり発達せず、歌曲にも俗謡ぞくようアリランによって代表されるごと哀調あいちょうを帯びたものが多いが、舞踊には僧舞そうぶ、鶴舞の如く藝術的香気げいじゅつてきこうきの高いものもある。

また朝鮮の人々は内地人に比べれば俊敏しゅんびんであるよりも一層頑健がんけんでありスポーツでもマラソン、重量挙げ、蹴球しゅうきゅう(フットボール)、拳闘けんとう(ボクシング)といった方面にその素晴らしい特長を発揮はっきしている。

戦後見てきたようなうそを言う一部の歴史学者によってゆがめられた歴史教育では、日本が併合時代徹底的に朝鮮文化の抹殺まっさつはかったかのような誤解を持ってしまった方もいるかもしれません。しかしこの昭和17年(1942年)の「前進する朝鮮」にあるように日本は朝鮮の文化、朝鮮の娯楽、朝鮮人の特性もキチンと評価しせているのです。

point今や韓国のアイドルが日本で活躍、多くのファンを獲得していますが、上記の様に併合当時は儒教の影響が強く朝鮮の音楽の文化はないに等しいものでした。
一足先に近代化した日本では、優れた音楽家の童謡どうよう創作によって児童向けの音楽が続々誕生し学校教育にも導入されました。日本とすれば哀調(悲しい調べ)の音楽を児童教育に入れるわけにもいかず、また早期学校制度の充実のためには、朝鮮人の音楽家の成長をまっていられないために日本の童謡、唱歌を朝鮮人児童の教育にも取り入れました。
これも政治活動にのめりこんだ学者によって十分説明されないまま韓国側の言い分が流され、所謂いわゆる日本による文化狩りの代表例のようになってしまったのです。
フットボールやボクシングの世界での在日韓国・朝鮮人選手の活躍を見れば朝鮮総督府の見立てがしっかりしているのが分かります。日常一緒にスポーツも楽しんでいたので彼らの身体的特性を知り評価していたのです。
頑健(丈夫じょうぶ)だけではなく、総じて鼻っぱしら(負けん気)が強かったといわれ、日本人のいじめっ子が朝鮮人の子供をからかっては取っ組み合いのけんかをしているのを見た人も多くいました。