日本人と朝鮮人(14)

八、建設に挺身ていしんする人々

「前進する朝鮮」8章は満州国まんしゅうこくを始め各地でふんとう闘する同胞どうほうについて触れます。
満州と朝鮮の深い関係。これを知らずに戦後の日本と韓国との関係改善に動いた両国の人の輪は理解できません。

建設の先駆者せんくしゃ

政治に経済に、産業に文化に、そしてまた一億一心いちおくいっしんの精神的団結と銃後の大建設戦の遂行すいこうに、三十年の歳月にきたえて、半島はいま偉大なる前進兵站基地ぜんしんへいたんきちとして大征戦下だいせいせんかせられた帝国の要請にえつつある。

内地人ないちじん(日本人)の努力

今日こんにち半島の躍進やくしんを築きあげたのは全く内地人の力である。
それ等多くの先覺者せんかくしゃ(最初に事を起した人)たちは今日すでに亡く、また残された人々もいまは老いたが、明治年間祖先墳墓そせんふんぼ家郷かきょう(先祖の墓があるふるさと)をあとに大陸の経営開拓かいたくにはせ参じた先覺者の壮心そうしん(勇ましい心)は、今日見るごと燦爛さんらん(はなやか)たる躍進となって永久の光芒こうぼうを放っている。

明治維新によって逸早いちはやく西欧の文明を摂取せっしゅしたわが国は、これを固有の日本精神に融合し短時日たんじじつ(短い期間)の間に驚くべき成長をとげた。
當時とうじその国民的素質の優越は惰眠だみん(なまけて眠る)に暮した朝鮮の人々に比べれば格段の相違であった。
したがって鬱勃うつぼつたる雄心ゆうしんを抱いて半島に渡来した人々は、官にあると野にあると、政治に参與さんよする(参加する)と産業乃至ないしは文化の開発に力をいたすとを問わず、その卓越した識見しきけん、手腕、技術をもっ拮据きっきょ経営(いそがしい経営)を重ね、半島にける皇道統治こうどうとうちいしずえを築いたのである。

すなわち今日の躍進はこれ等先覺者せんかくしゃの絶大なる努力指導のたまものであって、新しき半島はまたの偉大なる先人の血と魂の継承者によって指導せられつつたくましく前進する。ひとしく選ばれたる大東亜の指導者であるとはいっても、三千年錬成れんせい(神武天皇以来建国3千年鍛えてきた)の醇乎じゅんこ(純粋な)皇道精神において、内地人は建設日本の最精鋭さいせいえいであり、最中核であり、永遠の先駆者、より高き指導者である。

これはいたずらに高きをむさぼらんとする支配者的傲慢ごうまんではなくして、現實げんじつの国民的資質の高邁こうまい(気高く優れている)さの問題なのである。

半島これに答う

とまれ半島はいまの先駆者の指導と努力とに答え、大いなる兵站基地としての責務の完遂かんすい邁進まいしんしつつある。更にまた私達は大東亜戦下戦う半島と同時に、此の半島から挺身ていしんして共栄圏の各地に活動する多数の同胞のあることを忘れてはならない。

ざっと読まれると当時の日本人の朝鮮人に対する上から目線が感じられるのではないでしょうか。戦後、朝鮮から引き揚げた日本人があまり自分達がしたことを語らず、ほこらなかったのも併合時代の日本人がときおり見せた尊大そんだいさが彼等の誇りを傷つけていたのだろうという反省もあってのことでした。

自発的に行われた日本の近代化と違い、朝鮮半島の近代化を語る際、あれも日本がした、それも日本が持ち込んだ、これも、どれもでは朝鮮半島側にっては面白くなかろうという配慮が働いたのです。

その結果、併合時代日本が何をしていたのか正確な情報よりも、政治活動にのめり込んだ声の大きい人達によってかれたおかしな情報で歴史が歪んでしまうことになったのです。


大陸開拓たいりくかいたくの人々

半島外にある半島人の数は三百まん人にも上ると思われるがその第一は満州国である。朝鮮と満州とはもともと地続きであり、古い時代には北鮮ほくせんと満州とは同じ統治にぞくしていたこともあって、半島人の満州開拓まんしゅうかいたくは古くから盛んに行われていた。

今日在満ざいまん朝鮮人の総数は百三十萬以上に達するものと想像されるが、中でも咸北(咸鏡北道かんきょうほくどう)と接壌せつじょうする間島省かんとうしょうごときは、その地理的、歴史的な事情と相俟あいまって昭和十三年十月現在で既に五十二萬一千の朝鮮人が在住し、同省人口の四分の三を占めている有様である。
したがって鴨緑江おうりょくこう豆満江とまんこうあるいは白頭山はくとうさんというような、今日我々が考えてじつにうってつけの自然の境界線も、住民の来往相渉らいおうあいしょう(行ったり来たりする)のてんからすればさしたる障害とはならず、ここに一つの境界を感じるようになったのはく最近のことにぞくする。

特に清朝しんちょう時代は満州を祖先発祥そせんはっしょうの聖地として他種族の入満にゅうまんを禁じ、一方當時とうじの韓国もその鎖国主義から渡満者とまんしゃを罰したため半島人の満州進出はしばらく不振の状態にあった。
ところが明治初年の禁令が撤廃されてから渡満者はようやく多きを加え、昭和六年満州事變じへん勃発ぼっぱつについで民族協和、王道楽土おうどうらくどを理想とする満州帝国が建設され、日満一體にちまんいったい、更に鮮満一如せんまんいちにょ(朝鮮・満州は一つ)の精神が具現化ぐげんかされるや、朝鮮人の満州への関心はいちじるしく昂調こうちょう(高まって)し、爾来じらい(それ以来)大陸に進出するもの年々五萬を数える盛況である。

これ等在満半島人ざいまんはんとうじんの八割までは農業に従事し、くわ(農具)の戦士として楽土開拓らくどかいたくの第一線に活躍、東亜共栄圏の重要な一環である賓庫ひんこ満州国の建設、開発に懸命の努力をいたしつつある。
特にこれによって開発せられる全満の水田すいでん相當そうとうの大面積におよび、食糧の確保と経済的発展に貢献する所極めて大きい。

したがって総督府でもこれ等朝鮮人の保護に格段の努力をはらい、満州事變後既移住者きいじゅうじゃの生活安定のために昭和六年鐵嶺てつれい、引き続いて禜興えいこう(錦州省)、河東かとう(濱江省)、興亜こうあ(北安省)、三源浦(通化省)の五安全農村を設置して総戸数三千三百八十餘戸を収容、更にこれ等移住者の一元的統制指導を図るため昭和十一年満州国との協定によって鮮満拓殖會社たくしょくかいしゃを創立、毎年の入植おおむね一萬戸を限度とし、両国を一貫する重要国策として半島人開拓民の堅實けんじつな発展を図りつつある。

昭和九年以降の新規開拓民の数は間島省を筆頭に一萬八千戸に達し、昭和十五年度からは特に満州国の北邊振興ほくへんしんこう計画にもとづき、無住地帯に輝かしい将来をめざしてえいい意理想部落の建設に邁進中まいしんちゅうである。

これ等の開拓民達はいずれも満州建設のつちの戦士としての雄々おおしい自覺じかくと信念の下に、内地人開拓民と並んで興亜の前線に挺身活躍ていしんかつやくしているのであって、新しい移住者の中には、その最初の収穫をはるばる朝鮮神宮に奉献ほうけん、また総督そうとく、軍司令官に差上げて聖代せいだいの恩政を感謝するものもある。
また昨年秋には開拓農村の先頭をきって禜興安全農村から赤誠せきせい(まごころ)こもる愛国機が二臺献納にだいけんのうされ、故郷を離れてなお烈々れつれつたる半島同胞の愛国のじょう披瀝ひれき(見せる)した。

満州国に朝鮮人130万人以上、昭和15年からは特に満州国の北辺振興計画にもとづき朝鮮人入植者が奮闘していると、相当数の朝鮮人が満州国開発にあたっているのが分かります。満州国人の多くは朝鮮系日本人の入植者だったのです。
ですから、満州国の経営を担っている官吏かんり(役人)や民間経済人は当然朝鮮側の総督府とも朝鮮経済人とも連携を取っていて、満州国では現地に来ている朝鮮系日本人と顔なじみになる機会が多かったのです。
経済運営から軍隊の移動まで、文中にあるように鮮満一如せんまんいちにょのために連日龍山駅りゅうざんえき、京城駅から軍人、官吏、民間人が行き来していたのです。
そしてその人脈が、人物相関図が戦後の日韓関係改善のために必要とされました。

朝鮮半島・咸鏡北道が満州国と接しているのがわかります


北支ほくし同胞どうほう

今日新生こんにちしんせいの中華民国に在留する半島人出身者は北支だけでもすでに十まんを突破したものと推定される。
半島人の大陸進出は當初とうしょその素質の劣悪なためにいろいろの誤解を生み、到底同じ日本人として新しき東亜諸民族とうあしょみんぞくの共同の指導者となるに足らず、現地においても指弾排斥しだんはいせきされて今後に考うべき多くの問題を提供した。

しかし今日ではこうした出来の悪い人間は漸次ぜんじ(徐々じょじょに)淘汰とうたされつつあり、また全部が全部そんな風では勿論もちろんなく、事變當初じへんとうしょける天津てんしん義勇隊の活躍のごとく、皇国民精神を発揚はつようして新秩序の建設に協力する人々も決して少くない。

また古くから進出した人々の中には確固たる地盤を築きあげた成功者も多数であって、昨年大東亜戦争ぼっぱつ発するや單独たんどくで陸海軍に三十萬円の国防献金こくぼうけんきんを申出た青島チンタオの華北煙草社長林薫氏の如きは、平南鎮南浦の出身で一昨年も陸海空軍その他に十七萬円を献金した愛国の少壮しょうそう(若く元気な)実業家である。

なお作戦の第一線には事變以来軍属として、通譯つうやく、自動車の運転、その他いろいろの方面に多くの半島出身者が御奉公しており、その中には砲煙弾雨ほうえんだんうもと将兵に劣らぬ活躍を続け、壮烈護国そうれつごこくはなと散って恩賞の御沙汰ごさたはいし、また靖国神社合祀ごうしえいになったものも相當数そうとうすうに上っている。

「素質の劣悪なためにいろいろの誤解を」というのは、同じ服装をして日本語を話していれば、はたから見れば日本人としか見えません。
その状態で、一部の朝鮮系日本人が儒教じゅきょうや古い因縁いんねん(中国側は朝鮮を終始属国ぞっこくとして下に見ていたため朝鮮側に不満がありました)等で自分達の方が立場が上になったと見た地元民に対して尊大そんだいな行為におよんでもそれが全て日本人がやったことになっていたということです。

日本人だから偉いと地元民の列に割り込みをしたり、露店の物をお金を払わず食べて店主とトラブルを起こしたりでかなり教育水準が疑われる行為におよんでいたそうです。
そのクレームが日本に来て(目撃した日本人が生粋の日本人がやっていると思い処断を求めたようです)本国にも知れたことで朝鮮総督府に対処するよう指示が来たということです。

point一方で積極的に朝鮮系日本人として日本人に劣らぬ戦働いくさばたらきをした人達も多くいたわけです。満州や中華民国で英雄的行為と称賛された新日本人。
しかし、負け戦となったことでこの人達は中国や故郷こきょう朝鮮半島に身の置きどころが無くなり、名を変えて日本に渡った人も少なくありませんでした。

蘆台模範もはん農村

の大陸にもすでに半島同胞の開拓のくわは下されている。
北支蘆台の模範農村は昭和十二年、事變じへん勃発ぼっぱつによって此の邊一帯へんいったい流浪るろうする半島人の保護救済のため設置されたもので、河北省寧河縣蘇運河のほとり、三千五百町歩の田地を租借そしゃくし、一千戸の半島人を収容して北支最初の安全農村を建設すると共に、また将来半島人の北支発展に對する前進基地たらしめるものである。

そして此の模範農村は経営第二年目にして四萬石という収穫をあげて素晴らしいみのりの秋を謳歌おうかし、その整備した施設は昨年九月視察のため来場した約四十名の華人篤農家達かじんとくのうかたちをして
「これこそ皇道統治こうどうとうちの典型だ。ここで私達は朝鮮民族のために政府が如何いかに真剣に考えているかが一見して解った。
これを私達支那人しなじんの現状と思い比べるとき全く感慨無量かんがいむりょうなるものがあります。私達支那人一般は東亜共栄圏とうあきょうえいけんなどという言葉は全く自分勝手な言葉とばかり思っていました。

勿論もちろん内鮮一體ないせんいったいなどということも宣傳せんでんにすぎないと思っておりましたが、今日此の蘆台農村を視察して始めて嘘でなかったことを知り日本の真意を了得りょうとくした次第です。日本の所謂いわゆる八紘一宇はっこういちうの精神もよくわかりました。
今後私達支那人は日本の指導の下に東亜共栄圏の建設に協力すべきであると思います
と心から叫ばしめている。

私達支那人をフィリピン、インドネシア、インド等東南アジア諸国に置き換えるとき、朝鮮が昭和14年に独立を踏まえた準備に入るよう東京から戻った朝鮮総督府総監から口頭伝達された目的がはっきりします。

アジア諸国の独立活動家達に韓国を見せることによって大東亜共栄圏構想が決して絵にかいた餅ではないことを知ってもらい日本の仲間に引き込む、そのための第2回目の新韓国建国計画だったのです。

真珠湾を攻撃していなければ日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
朝鮮から引き揚げた事情を知る日本人が何度も口にした「何故、あのタイミングで戦争をしたのか?」答は今も分かりません。


銃後じゅうごの建設戦士

半島人の建設戦場はまた満州支那ばかりではない。
事變以来多数の働き手が戦線に出動した帝国の銃後にける勞務ろうむの供給基地として、聖戦下せいせんかに於ける半島の使命は一層その重要性を増大しつつある。

多数の半島人勞務者が建設戦士として内地はもとより樺太からふと南洋群島なんようしょとう方面まで勇躍ゆうやく進出して、石炭を始め各種の鑛山こうざん、工場あるいは土建工事等に従事して勞務報国ろうむほうこく(労働で国につくす)のまことをささげている。
われわれは銃後をまもる、われわれは銃後を建設する、われわれは銃後で戦うのだ、これが半島の総力精神である。

そしてこれ等の産業戦士を通じて深められる内鮮一體ないせんいったいの理解は、指導者日本の精神的発展の上にも幾多の喜ぶべき影響をもたらしつつある。

すでに戦場は全東亜である。われわれの戦いには銃後も銃前じゅうぜんもない。一億決死総當そうあたりの戦争なのであるが、朝鮮の同胞も朝鮮自體は勿論もちろんとして支那に満州に内地に南洋に、共栄圏の全戦線にわたって此の戦争を戦いつつあるのだ。

兵站基地へいたんきちとして、労務の給源地きゅうげんちとして、戦争日本に半島の負荷ふかする意義はまことに重大であるといわねばならぬ。

誰もが当たり前に労務報国を行っていた時代、朝鮮系日本人もまたそれを当然のようにこなしていきました。

島国日本のことしか知らない日本人ではなく真に朝鮮の人々と共に戦争を生きた、そして重要な情報を知っていた朝鮮引き揚げの日本人達の言っていた「朝鮮の人に申し訳ないことをした」という言葉には、大東亜共栄圏を夢見た仲間だったはずの朝鮮半島の人々を事実上敗戦と共に日本本国があっさりと捨て去り、あろうことか国民に事情を説明することなく多年に渡り苦労していただいていた次期韓国皇帝候補ご家族を放り出したことに対するやりきれなさが含まれていました。

「どんな形にしろ我国の天皇制は残ったのに、明治天皇から大正天皇からそうするようにと御心を示されていたのに、韓国に戻すどころか韓国皇帝を永遠に失わせることになってしまった、誠に申し訳ないことをした」


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